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【コミカライズ配信中】康太の異世界ごはん  作者: 6k7g/中野在太
第一部 踏鞴家給地編 第一章 心尽くしの小さき饗宴
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エルフの娘さんは、山へ柴刈りに

「……ため池?」


 決然と歩き出して一時間。

 時計によれば時刻は午後二時半。

 銀行までの距離はまったく分からないながらも、よたよたと歩いていくうち、だんだん植生が変わってきた。

 ケヤキ林に、ブナや、ひょろひょろのツツジっぽい柴木がまじりはじめる。


 チシマザサによく似た、三メートルほどの草が群生する地帯を横目に、なおもよたよたと歩き続ける。

 心地よいおひさまの光がたっぷり差し込み、気分が上向いてきた。


 そのあたりで気づいたのだが、どうやらこの一時間ほど、斜面を下るように進んでいたらしい。

 ケヤキの根っこがはびこりすぎて足元がおぼつかず、下っているのか昇っているのかすらよく分からなかったのだ。

 ともかくようやく森が切れ、平坦な場所に辿り着いたときの一言が、前述のものだ。


 目の前には池が広がっていて、その周囲には草が密集していた。

 ワレモコウっぽい、てっぺんが丸っこくなっている草。

 やたらはびこる、くずにしか見えないつる性の植物。

 なんかイネ科っぽい草。


 なんでため池だと分かったのか。

 石を積んだ護岸と、排水設備があるからだ。

 ついでに言えば、対岸に、木で作ったベルトコンベアみたいなものが据え付けてあるのが見えた。


 ため池を廻り込むように歩きだす。

 なんだか懐かしい、土と草と水の熱っぽいにおいをかぎながら歩きすすむ。


 間近に見て、ベルトコンベアの正体が分かった。


龍骨車りゅうこつしゃだ」


 ペダルをこいでベルトコンベアを回し、農業用水を汲み出すための装置。

 一六三七年にミンで出版された技術書、『天工開物』に載っているのを読んだことがある。

 日本だと、昭和の中ごろまでは滋賀県あたりで使用されていたらしい。


 目の前の龍骨車、素材は杉かヒノキかアスナロか、まっすぐの木目がたいへん美しいのではあるけれど。

 そんなものが斜面の平たい場所にあれば、眼下には当然、


「……水田? え? 水田?」


 と二度言いたくなるような風景。


 ため池を頂点にして、棚田が扇状に広がっている。

 田にはたっぷり水が張られて、背の低い稲が並んでいる。

 ときおり吹く柔らかい風が、水面と稲をゆらしている。


 腰をかがめて雑草をひっこぬく、農作業中のひとたちがいる。


 ゴイサギにしか見えない、やぼったい感じの鳥があぜ道でぼけっとしている。

 扇の端っこの方では、元気いっぱいの雑草に埋もれた休耕地が目立っている。


 たしか、つい二時間前までは一月のおわりだったはずだ。

 バレンタインに向けて、チョコレートビールの確保に頭を悩ませていたはずだ。

 しかしこのやわらかい風、この、昨日田植えを済ませたみたいな水田。



「……初夏? え? ……集落?」



 首を傾げたら、またわけの分からないものが見えた。


 段々畑の向こう側。

 山間の谷間に、ほそぼそと平屋の木造住宅が並んでいる。


 木の板を葺いて重石を積んだ切妻屋根。

 板張りの壁。

 窓には、ぱりっとした感じの布がかけられていたり、跳ね上げの木蓋がかけられていたり。

 それが、二百戸ほど。


 谷の底には、水量の多い川が、ゆったりとながれている。

 川で洗濯っぽいことをしている人がいる。


 相模大野の駅前の風景とは、ちょっと違う感じがした。



 ああ、空が青い。



 心の声が聞こえる。


――そろそろここが相模大野ではないことを認めたらいかがでしょうか?


 ごもっともだ。

 しかし僕は、未だに断固として決然としている。

 ケヤキの極相林を背後に抱える農村にだって、横浜銀行の営業所ぐらいあるかもしれない。

 なにしろ、僕の給料を振り込まんとする意志はすごいぞ。

 横浜銀行の営業所の方でも、ちょっと融通を利かせてくれていいぐらいだ。

 おまけに、午後三時まであと十五分もあった。


 断固として決然とした気持ちは、しかし、十五分どころか数秒後にきれいさっぱり消え去った。


 背後でがさがさと木の枝のこすれるような音がした。

 なにかの気配を感じる。

 嫌な予感と恐怖が全身を雷みたいにつらぬいて、身体が硬直する。


 こういうとき、いつもサバンナのだちょうの話を思い出す。

 サバンナのだちょうは、ライオンに追っかけられたりして危機が迫った時、穴を掘ってそこに顔を突っ込むらしい。

 何も見えないし聞こえない、だから恐怖もない。

 サバンナのだちょうはすぐれて仏教的な見地から危機を『なかったもの枠』に放り込み、一安心している内に食べられるのだ。

 それと同じことをした。

 つまり、目を閉じた。


「あのう」


 サバンナのだちょうを範とする上での致命的なミスが、すぐさま発覚した。

 耳をふさいでいないのだ。

 これではライオンが迫ってくる足音が聞こえてしまう。

 涅槃の境地にはほど遠い。


「すみません、あの……」


 しかし聞こえてくるのは、日本語だった。

 控えめで、空に消えそうなほどに細い、女性の声。


 目を開けて振り返り、


「……エルフ?」


 エルフがいた。



 それがエルフであることはもうまったく議論の余地がなかった。

 のだが、検討する余地はありそうだった。


 日に褪せた金色の、長いまっすぐな髪。

 とがった耳。

 面長の、完璧にととのった顔のかたち。

 翡翠色の瞳と高い鼻。

 透けて見えそうなほど白い膚。


 ケルト音楽が聞こえてくる北欧の森の木々の上で、北欧の家具に囲まれていそうな雰囲気の顔だった。

 ここまでは議論の余地がなさそうだ。

 

 けれど衣装は、エルフっぽい真っ白なワンピースではない。

 そして北欧っぽくもない。


 遠目にもざらざらしているのが分かる、和服みたいに帯でとめる服。

 麻か、あるいは木の皮から取り出した繊維を、荒っぽく編んだものなのだろう。

 染色もしていない、素材そのものの、どことなく黄ばんだ色。

 なんて例えればいいんだろう。

 古い居酒屋の洗いざらした古いのれんを、浴衣に仕立て直した感じ。

 あるいはドン・キホーテで買った980円の甚平の五年後。


 さらにまずいことに、エルフは、木の枝を編んでつくった背負しょいかごの中に、柴をたっぷり詰めていた。

 柴が重いのか、猫背になっていた。


 どうしてこんなに矢継ぎ早に意味の分からないことが起こるのだろう。

 死んだと思ったらケヤキの極相林の中にいて、近くの農村ではエルフが山に柴刈りに出ている。

 なんなんだこれは。

 熱があるとき見る夢みたいにふわふわしている。


「道に迷われたんですか?」


 柴を背負ったエルフがいった。

 猫背のまま、一生懸命顔をあげているのがなんだかいじらしい。

 いじらしいけど、エルフっぽい仕草ではない。

 もうちょっと、しゅっと立っていてほしい。


「どうもそうみたいなんだ。ええと、近くに横浜銀行ってあるかな?」


 もちろん無駄だとは分かっていた。

 仮に世界にエルフが実在したとして、横浜銀行を知っているとは思えない。


 当然エルフは、不思議そうにまゆをひそめ、口をはんびらきにた。

 かわいいけど、エルフっぽい仕草ではない。

 もうちょっと、どんなときもわけ知り顔でいてほしい。


「その、つまり……どうしても振り込まなくちゃならないんだ。三時までに。ほら、銀行って三時に閉まるから」


 エルフの表情があまりにもぼやっとしていたので、ひとこと喋る度に、むなしさで脱力してきた。

 二歳児に『禅』について説明しているような気分だ。

 けれどとにかく、腕時計を見せて、指先でたたいてみる。


「三時……? その腕のもの、なんですか?」


 エルフがまたも口をはんびらきにした。

 そうだね、エルフには機械式時計なんて似合わない。

 その背負ってる柴と同じぐらい似合わない。


 二人のあいだにおそろしく無意味な沈黙が横たわった。

 エルフの娘さんは値踏みするような目線でこっちを見てきた。

 それも、


『この物体にはこれぐらいの値段が妥当だな』


 という値踏みの仕方ではない。


『この控えめにいってもごみみたいな物体に、誰かが価値を見出すことなどあるのだろうか?』


 という、けっこう実存的な根深い疑惑の目線だ。


「あの……エルフみたいに見えるけど」


 沈黙に耐えられず、ばかみたいなことを聞いてみた。

 その答えはというと、


「え? ああ、はい、そうですね。この辺りは昔からそうみたいです」


 という、ものすごくあいまいな発言だった。

 なんだろうこの感じ、なにかに似ている。

 ああそうだ、歴史上の偉人の子孫を訪ねるテレビ番組で、


『この辺の連中はだいたい武田信玄の血を引いてるって話だねえ』


 って農家のおばちゃんが言ってる感じだ。


「むかし住んでいたエルフたちの“述瑚じゅつご”が残っているみたいで、たまにこういう子どもが生まれてくるんです」


 『述瑚』。

 なぜか頭の中で漢字が認識できた。

 理由は分からないし、『述瑚』の意味も分からない。

 が、なんだか世界がどんどんものものしくなってきたことだけは分かる。


 とはいえ、そのものものしさを認めてしまえば、近所に横浜銀行が存在しないことも自動的に追認することになる。

 まだ三時まで五分もある。

 諦めるにははやい。


「わたしの魔述まじゅつの語彙も、エルフに由来するものみたいで」


 いま『魔述』って言ってたけど、しかも再び漢字で認識できたけど、『魔術』じゃないから大丈夫だ。

 なにが大丈夫なのか分からないけれど、あと四分あるし。


「わたし、鷹嘴たかのはし火述かじゅつ踏鞴戸たたらこ榛美はしばみといいます」

「あ、紺屋こうや康太こうたです」


 名前がかなり長いけどぎりぎり日本語だから大丈夫だし、あと三分十秒ぐらいあるし。


 もうなにひとつ大丈夫ではなかったのだけど、必死で自分に言い聞かせつづけた。

 必死になっていたから、気づかなかった。


 エルフの娘さんがじょじょに前のめりになっていたことに。

 エルフの娘さんの顔面に玉のような脂汗が浮いていることに。


「ふにゃっ」


 唐突に(というのはそう見えたというだけのことで、前兆はこの上なく明白だったのだけど)、エルフの娘さんが倒れ込んだ。

 顎から地面に落ちて、背負いかごの中の柴が全部だーってこぼれて、エルフの娘さんを生き埋めにした。


「うわあ!」


 エルフの娘さんがいきなりトレントに変身したのかと思って思わず飛びのいてから。


「だいじょうぶですか!」


 トレントに変身したのではなく、ただ単にぶったおれたのだと気付いて、あわてて駆け寄った。


「ご、ごめんなさい、重かったんです……」


 柴の下から声がして、顔が飛び出してきた。

 頭をぷるぷる振って、髪にからみついた柴を落とそうとしている。


「いたっ!」


 髪にからみついた柴に顔を叩かれ、泣きべそをかいている。


 これは、なんていうか。

 おなか痛くてトイレに向かって渡り廊下を走ってるところで友達に遭遇し、会話を切り上げることができない感じだったのだろうか。

 すごく悪いことをしてしまった。

 エルフの娘さんあらため榛美さん。

 どうも、間が悪い感じの良い子らしい。


 時計の文字盤が目に入る。

 二時五十九分。

 あと二十秒で三時になる。

 そろそろ認める頃合いだろう。


「ごめんね、立てる?」


 ひとまず榛美さんを助けるところから始めよう。


「つかまって」


 榛美さんに手を伸ばし、助け起こす。


「あ、ありがとうございます」


 おずおずと差し出されたその手を握りしめたとき、時計の秒針が12の数字をあっけなく通過した。



 どこか遠くで横浜銀行の窓口が閉まり。

 僕の異世界暮らしがはじまった。



 ちょっと説明しづらいもろもろの偶然が重なり、僕はやがて、この世界の歴史に関わっていくことになる。


 あるときは、地方の農村で変わった料理をつくり。

 あるときは、弱冠七歳の貿易商人と共に世界を巡り、交渉の場に料理人として立ち。

 あるときは、獣人や竜人たちが集まる場で、饗宴外交を受け持ち。

 そんなことばかりしていたら、『大商人の料理番』という、たいそうな二つ名をいただいたり。


 いつもどこからともなく厄介ごとを吸い寄せてくる僕に、文句ひとついわず寄り添ってくれた榛美さんとの、これが、出会いだった。


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