エルフの森の少女
あたしがこの話を聞いたのは、十三歳のころ、おばあちゃんが末期がんだって判明したとき。
死ぬまでの一直線が、ジェットコースターみたいな猛スピードで、おばあちゃんをあの世めがけて運びはじめたとき。
お父さんから聞いたのは、絶対完璧にまちがいなく近々(きんきん)に死ぬと知らされた人が、どうやって自分の死を受け入れるのかっていう話だった。
否認、怒り、取引、抑うつ、受け入れの五段階を経て、人は死んでいくらしい。
おばあちゃんは、最後まで死を受け入れなかった。
一年近く、みっともなくもがいてあがいて、わめきながら死んでいった。
あたしの場合は、わずか一秒。
もしかしたらもっと短いかもしれない。
あれは多分、地震だったとおもう。
かえるみたいに世界が跳ねて、そのときあたしは、いつもみたいに部屋にいた。
築四十年の家は、どうやら揺れに耐えられなかったみたい。
二階分のがれきが、あたしに向かって落ちてきた。
死ぬと直感したあとの心の動きは、すがすがしいぐらいのスピードだった。
まずは否認(うそでしょ、こんな急に死ぬわけないじゃん)。
そして受け入れ(よかった、これでやっと終わりだ)。
自殺することすらできなかった下らない人生が、うやむやのうちに終わってくれる。
これこそ、あたしの望んだ死に方だった。
あたしはよろこんで、がれきを受け入れた。
もうちょっと時間があったら、キスぐらいしてたかな。
あたしのキスになんの価値があるのかは、知らないけど。
だけど、なにも変わらなかったんだよ。
うやむやのうちに終わったはずの人生が、うやむやのうちに、またはじまって。
あたしは今、異世界で生きている。
エルフの住む、深い森の中で。
鼻先で水滴がはね、あたしは目を覚ます。
ここはエルフたちの小屋で、あたしは異世界にいて、秋の終わりを迎えるのは二度目だ。
もう、枝と葉っぱを積みあげただけの床には、慣れた。
じめじめしている上、木の枝を組み合わせただけで雨漏りする天井にも、慣れた。
小屋から出ると、そこは深い森。
どんぐりみたいな実をつける大きな木が、枝を絡めあい、空を覆っている。
歩き出すと、地面を這いまわる木の根っこに、足を取られそうになる。
だけどあたしは、パーカーのポケットに手をつっこんだまま、フードを深くかぶったまま、進む。
なるべく不機嫌に見えるように。
この世界が気に食わないんだって、誰にでも分かるように。
誰も見てないのは、分かってる。
ちょっと歩くと、広場に出る。
小屋みたいな木々の寄せ集めと、石を組んでつくったかまどがあるだけの場所。
霧雨の中、エルフたちが朝ごはんの支度をしていた。
「白茅、朝めしには間に合ったなァ」
あたしに気付いたエルフの男が、うれしそうに笑った。
名前は、ヤオジン。
あいかわらず、ひどい恰好。
たとえていうなら、毛糸でつくったすだれ。
それを、コートっぽいかたちにしている。
木を削ったボタンだけが、なぜか、ぴかぴか光っている。
おまけに右手に、石斧を持っている。
一年過ごして分かったこと。
この世界の文明は、まだ縄文時代ぐらいなんだってこと。
鉄もまともな家もない。
みんな、森の中をぷらぷらして、毎日過ごしている。
「食べるだろ、白茅」
なるべく不機嫌に見えるよう、うなずく。
この一年で、エルフたちの言葉も、分かるようになってきた。
木をけずったお椀を、ヤオジンがさしだす。
受け取って、味のないおかゆを喉の奥に流しこむ。
浮かんでいるのは、鳥のエサみたいな小さくて白い粒。
噛んでも、なんの味もしない。
「まだ食べるかァ?」
あたしは首を横に振って、ヤオジンにお椀を突きかえした。
このおかゆにも、もう慣れた。
うっとうしい霧雨なんか、エルフたちには関係ないみたい。
横になって空を見上げたり。
子ども同士で、はしゃいで駆けまわったり。
四人ぐらい集まって、早口で、なにかしゃべったり。
石斧に、つるを巻き直したり。
広場に背を向けて、小屋に帰る。
寒くて暗くて湿っぽい小屋でも、外よりはましだから。
異世界だったら、なにか、変わるかもしれない。
そんな空想をもてあそんだことぐらいは、ある。
学校にも行かないで、うすぐらい部屋の中に、閉じこもっていた日々のこと。
時間が過ぎてくれること、それだけを祈りながら、布団にくるまっていた日々のこと。
なんだかなんとなく、ある日とつぜん、疲れていることに気付いたんだ。
おおきな事件に直面したわけでも、だれかに幼い頃のトラウマを掘り返されたわけでもなく。
なんだかなんとなく、ある日突然、ぐったりしたんだ。
今でもうまく説明できないな。
あたしはいつだって、他の誰よりも劣っている気がして、他の誰よりも、たいくつな気がして……
ちっぽけな無数のできごとが降り積もって、いつの間にかあたしは、外に出られなくなっていた。
もしも、異世界に行けたら?
手持ちの知識をうまく使って、たくさんの人に認められたら?
たとえば、たとえば……なんでもいいんだ、ちょっとしたことでいい。
ただ、二十一世紀の日本に生きていたってだけで、たったそれだけのことで、異世界にとっては、すごいことのはずなんだ。
ここじゃない場所。
今じゃない時間。
そうであれば、あたしだって。
でも、異世界は、こんな風だった。
縄文時代のエルフと、味のない、鳥のエサが入ったおかゆ。
そして縄文時代のエルフは、縄文時代なりの楽しさで、日々を生きている。
あたしの知識が役に立つことなんてない。
あたしは石斧をつくれない、
あたしはどんぐりを上手く拾えない。
あたしはすだれみたいな服を編めない。
あたしは鳥のエサみたいな粒が、どこにあるのか知らない。
「白茅! 白茅!」
血相を変えたヤオジンが、洞窟に飛び込んできた。
雨だけのせいとは思えないぐらい、全身、びしょぬれだ。
「白茅! 助けてくれ! 巫女さんの力が必要なんだ!」
あたしはうなずいた。
そうそう、一つだけあるんだよ。
この世界で、あたしが、役に立てること。
広場には、森中のエルフが集まっていた。
ぐるっとなにかを囲むように、人だかりができている。
「白茅! ああ、白茅!」
あたしに気付いたエルフたちが、すがるような声をあげる。
泣いているエルフ、あせっているエルフ、怒っているエルフ。
みんなの視線が重くて熱くて、気分が悪くなってきた。
エルフたちが、道を空ける。
ちいさなエルフの女の子が、草の上に、横たわっている。
ヤオジンと同じように、びしょぬれだ。
裸の身体は、透けてしまいそうなほど真っ白。
静脈の青さが、なんだか生々しくて、目をそらしたかった。
「白茅、平気かァ?」
「だいじょうぶ」
ヤオジンに問われて、思わず日本語で返事をしてしまっている。
足が震えている。
頭が痛くて、吐き気がひどい。
視界が狭くなって、世界から色が消えていくのを感じる。
あたしは歩いていって、地面に膝をつき、エルフの女の子の頬に触れた。
ぞっとするほど冷たい。
川の水みたいだ。
「溺れて、水を飲んだんだ。助けた時、もう息をしていなかった」
あたしの背中に、ヤオジンの声が降ってくる。
霧雨みたいな、弱弱しい音だった。
「白茅、救ってくれ」
救う。
それが、あたしにできる、唯一のこと。
目の前で死にかけている、ちいさなエルフの女の子を、救う。
冷たい頬に触れたまま、目を閉じる。
ゆっくりと、一定のペースで呼吸する。
そうしながら、日本にいたときのことを、思い浮かべる。
「さァ、もう大丈夫だからなァ。時述べの巫女が来てくれた」
横たわる少女も、ヤオジンの声も、遠くなっていく。
午後が深くなって、世界が少し暗くなる瞬間の、うしろめたさ。
学校帰りの子どもたちの、楽しそうな声が聞こえてきた瞬間の、うしろぐらさ。
心臓から左足の付け根にかけて走る、痺れるような焦り。
胸とおなかのあたりを暴れまわる、世界のありとあらゆるものに対する不安。
布団の中に作り出した暗闇の中でこぼす涙と、自分の吐息のにおい。
あたしは祈る、時間がたちまちのうちに過ぎ去ってくれることを。
あたしは全部思い出す。
あのときの焦りと不安と涙と祈りを。
目を開く。
視界に浮かぶのは、互いちがいに回転する、青くかがやく二重の円。
円の内側には、アナログ時計みたいな模様。
魔法陣。
あたしの力。
この世界で手に入れた力。
誰かの役に立つための力。
その力で、エルフの少女のからだを、撫でる。
少女が、目を、うすく開く。
ひすい色の瞳。
『助ける』と『救う』を、エルフがどう使い分けているのか、理解したのはいつだっけ。
ひすい色の瞳が、見る見る内に、白くにごっていく。
真っ白な体に、紫色の斑紋が、いくつも浮かんでは消える。
青ざめた静脈が、針金でしばった痕みたいに、からだに浮かび上がる。
少女のお腹がふくらんで、薄茶色の体液が、穴という穴から流れ出ては、たちまちのうちに、消えていく。
それから、少女の体が、乾いていく。
金色の髪が、音もなくしおれ、抜け落ちる。
眼球がしぼんで、粉になって、眼窩の奥に流れおちていく。
水分の失われた膚が、こげ茶色の、木の皮みたいなものに変わる。
てのひらに触れていたやわらかい頬が、ひからびていく。
乾ききった少女から手をはなして、立ち上がる。
ヤオジンは涙を流していた。
「よかったなァ。ああ、救われた、よかったなァ……」
少女だったものの額だった場所に指を触れ、ヤオジンが泣いている。
「ありがとう、白茅。救われたんだよ……」
感謝の声、泣いた声。
あたしはエルフたちを振り切って、走った。
根っこに足を取られて転んで、その拍子に、吐いた。
さっき食べたおかゆを、ぜんぶ、地面にぶちまけた。
仰向けになる。
絡みあった枝が、空を覆っている。
胃酸のにおいと、喉に残った吐瀉物にむせながら、あたしは叫んだ。
声にならない声で、何度も叫んだ。
これが、あたしの力だ。
触れたものの時間を、早まわしにする力。
エルフたちはあたしを、時述べの巫女と呼ぶ。
死体を、手ばやく安全に、ミイラにしてくれるから。
それ以外のことを、エルフたちは、あたしに求めない。
だれか、笑ってほしい。
それでもあたしは、自分で死ぬだけの勇気さえ、持っていないんだよ。
おばあちゃんみたいに、みっともなくあがいて、もがいて、わめいているんだよ。
なにも変わらなかった。
あたしは、なにも変えられなかった。
世界のことも、あたしのことも。
布団にくるまって、ずっとネットばっかりしていたけれど、肝心なことは何一つ分からなかった。
たとえば、異世界で縄文人みたいなエルフと暮らしはじめた場合、どうすればいいのか。
たとえば、異世界で生理が来た場合、どうすればいいのか。
たとえば、異世界の縄文エルフが、生理中の女性を集落から追い出して、変な洞窟に軟禁する文化を持っていた場合、どうすればいいいのか。
あたしはそこを、隔離小屋と名付けた。
『大事なもの』と『火から遠ざける』という、二つの言葉を組み合わせた感じの言い方で、エルフたちは呼んでいる。
地面に敷いた枝や葉っぱはすぐに腐るから、毎日、取り替えなくちゃいけないけれど。
しかも、最低の手仕事を押しつけられるけど。
とにかく、一人にはなれた。
水の流れる音で、あたしは目をさます。
隔離小屋は、川のすぐ近くにある。
「かゆ……」
つぶやいて、泣きたいような気持ちになった。
柱に手をついて、そっと、慎重に、立ち上がる。
その動きだけでまたあふれ出して、いっそどうでもよくなってきた。
脱いだ下着は、ネズミを一匹くるんで握りつぶしたみたいに血まみれだ。
格子柄で、ミルクレープ色の、綿の下着。
何度も何度もあたしの血で染められて、古い十円玉みたいな色になっている。
コンビニで買った、こんなずたぼろの布きれに、あたしはすがりついている。
縄文エルフたちの下着は、薄い巻きスカートみたいなもので、あたしはそれを受け入れない。
そうしたら、この世界と縄文エルフの生き方を、受け入れることになってしまいそうだから。
血まみれの下着を手に、川におりた。
コケの生えた岩に足を取られながら、くるぶしまで水につかる。
秋の水は冷たくて、おなかも頭も痛くて、気分は最低だ。
子どもを産む準備なんて、なんの意味もないのに。
頭も体も定期的におかしくなって、その度死のうと思うのに、自分を殺すこともできないでいる。
朝起きれば顔を洗いたいし、そうすればおなかがすくし、夜になれば眠たくなる。
心に関係なく、体は淡々と、生きつづけることを選びつづけている。
下着を川で洗う。
水面から突き出した岩のあたりで生まれた泡が、わずか赤茶色に染まって、はじける。
めまいがした。
ちかちかして、倒れるまいと右足を出して、すりへったクロックスの底は、岩の上のコケをつかまえられない。
世界が高速で後ろに流れ去っていって、あたしめがけて岩が迫ってくる、そうじゃない、あたしが岩めがけてつっこんでいるんだ。
あの時のことを思い出す。
あたしの死を祝福してくれた、たくさんの愛しいがれき。
岩の鋭さを、それが目に食い込む瞬間を、あたしは想像する。
抱きしめて、キスしてあげたかった。
こんな風に、何気なく死ぬんだな。
貧血で冷たい水に入って、たちくらみで転んで。
あっちでも、こっちでも、なにもできずに。
なにもかも、誰かより劣っているあたしのままで。
変わらないままで。
だけど。
岩のかわりに、あたしは、なんだかあたたかいものにぶつかる。
なにかがあたしの体重を受け止めて、どうしてだか、なつかしいにおいがする。
「うわあ僕すごい、これ間に合ったのすごいぞ。今からでもアスリートになれるかな」
あまりにもなつかしい、それは、あたしの知っている言葉。
日本語。
日本語だった。
顔を上げると、男の人がそこにいた。
「あ……あああ……」
言葉が出ない。
うめき声しか、出てこない。
なにか、言わなくちゃ。
なにを言えばいいんだろう?
日本人がいた。
縄文時代のエルフの異世界に、あたしと同じで、迷いこんだ人がいた。
どうしよう、だって、男の人だ。
大人の男の人と、しゃべったことなんてない。
まだ学校に通っていたとき、大学生と付き合っていることを自慢する子がいた。
あたしは、そんなことを自慢する心の貧しさを、心底から、けいべつして――
そうじゃないって!
ちがう、どうしよう、どうしよう、どうしよう?
「あ、あのっ」
「うん」
「その、あ、あの、ええとっ」
「うん」
「ねえ、最新のドラクエって、いくつ?」
は?
なんで?
あたしはいま、なんて言った?
なんでそんなことを聞いた?
気づいていないだけで、本当にあたまがおかしくなっていたの?
もうやだ、死にたい、大人の男の人がいて、あたしを助けてくれて、日本人で、やさしそうで、あたしはばかなことを聞いて、ああ、もう、いやだ、死にたい、死にたい!
だけど男の人は、おだやかにほほえんだ。
この世の善意という善意を、根こそぎかき集めてきたみたいな、笑顔で。
「うわ、それクロックスだよね、なつかしいなあ。ええと、ドラゴンクエストヒーローズ」
そんな風に、答えてくれた。
「2じゃなくて?」
「えっ、2出るの? まいったなあ、異世界なんて来てる場合じゃなかったぞ」
「2は、あ、あの、もうすぐ発売で」
うまく呼吸ができない。
あたしは、泣きながらしゃべっていた。
くだらないことを、あわててしゃべろうとしていた。
おぼれている人が、水面に顔を出したとき、必死で呼吸するみたいに。
「ええっ? 知りたくなかったなあ、それは。君はドラクエ好きなの?」
「あ、あんまり知らないけど」
「そっか。でも、異世界で出会った初対面の日本人相手になにを聞くかっていえば、ドラクエはとても適切だと思うよ」
「2は、もうすぐ、出て……」
男の人の服に、爪を立て、しがみついていた。
男の人が、あたしの背中を、やさしく、くりかえし、たたいていた。
とても小さい頃、おかあさんがそうしてくれたみたいに。
「紺屋康太といいます。あなたのお名前は?」
優しい声があたたかい霧雨のように降る。
「鵆川、白茅」
あたしはすがるようにあたしの名前を口にする。




