ケヤキの極相林
目覚めて最初に思ったのは、
――あれ? ケヤキ林かな?
次に思ったのは、
――やばい! 銀行が閉まる!
だった。
今日の分の仕込みを終えて、その足で銀行に出向き、アルバイトさんたちの給料を振り込む予定だった。
居酒屋『ほのか』を支えるのは、だしまき卵を器用に巻けるツノダ君と、日本酒の知識がやたら豊富なサイトウさんだ。
正月は三が日から働いてもらったのだ、今月分の給料はたっぷり色を付けておいた。
ツノダ君は新しいゲームソフトを買うだろう。
サイトウさんはヨーグルトメーカー欲しいって言ってたもんな。
みんなが給与明細を見てどんな顔をするのか今から楽しみだ。
だというのにケヤキ林の只中にいる。
横浜銀行はちょっと遠そうだ。
大樹を頼りに身を起こし、あたりを見回す。
ねじくれた木の根がはびこり、腐葉土が積み重なっている。
下草や低木すら存在しない。
昼間なのだろうけど、おひさまの光は差し込んできていない。
湿気て、陰気で、とにかく憂鬱な場所だった。
いわゆる極相林というやつだろう。
一種類の植物があまりにも育ちまくったせいで地面に太陽光が当たらなくなり、他の木々が生えなくなった状態だ。
「でも、ケヤキだよなあ」
ひとりごとがむなしく森に吸い込まれる。
ゾウやサイみたいな感じの、灰色でしわが寄った樹皮は、ところどころ、うろこみたいにはがれている。
地面に落ちている、ぎざぎざの葉。
箒をひっくり返したような樹の形。
どう見てもケヤキだ。
そしてケヤキが極相林を形成することはありえない。
ケヤキの種は太陽光がなければ発芽しないからだ。
うなじの辺りがぞわぞわする。
なんていうか、あまりに精巧な人形を見た時のような、そう、これは『不気味の谷』みたいな感覚だ。
何かが間違っている。
何かがずれている。
そもそもなんでこんなところにいるんだ?
無意識に身体に手をやった。
着慣れた黒いエプロンには、居酒屋『ほのか』のロゴマーク。
ニットのブロードタイ。
ラフだけどシルエットが気に入っている、リンネルのワイシャツ。
おそるおそる、指をゆっくり上に滑らせていく。
首筋に触れる。
そこには、あるべきものがない。
あるべきもの。
つまり、頸動脈をぶったぎって気管まで到達しているはずの、創が、ない。
「まいったな」
ため息をつく。
ため息をついて「まいったな」と言う以外に、何をしたらいいのかわからなかった。
ふと、父さんのことを思い出した。
すい臓がんの摘出手術の最中、父さんは臨死体験をしたのだという。
――いいか、康太。死後の世界ってのはすごいぞ
病床の父さんは、そう言うと、今までどこに隠していたのかというぐらい手慣れた感じのしたり顔を浮かべた。
それから、まったく元ネタの分からない言葉を口にしたのだ。
それに倣ってみようと思う。
「死んだら驚いた」
紺屋康太は、つまり僕は、ついさっき、死んだはずだった。
そしてその死は、
『26歳の居酒屋経営者が強盗に刃物のようなもので首を刺されて死んだ』
という、とてもありふれたニュースになったことだろう。
正確に言えば凶器は左利き用の出刃包丁だったのだけど、今のところそれを知るのは僕と犯人だけだ。
死んでいるのであれ、ここがどこであれ、ともかく重要なことがある。
今日の三時までに給料を振り込まなければならないという点だけは、経営者としてゆずれない。
僕は決然と、横浜銀行めざして歩き出した。
居酒屋『ほのか』は、小田急江ノ島線東林間駅から徒歩五分。
一階のカウンターで、静かに呑むのもよし。
二階の御座敷で、わいわい楽しむのもよし。
厳選した日本酒とクラフトビール、店主の創作料理で、みなさんのお越しをお待ちしております。
アルバイト募集中。未経験者さん、学生さん、フリーターさん、歓迎です。おいしい賄いあります。