僕は頑張ってが言えない
「ドンドンドン」
激しく窓を叩く音で目が覚めた。今は何時だろう。
「ドンドンドン、火事よ! 逃げて!」
誰かが窓を叩いている。何だか明るい。窓の外はオレンジ色の明かりが仄かに見える。僕は夢を見ているのだろうか。
「危ないから早く外に出ろ!」
知らないおじさん達が階段をどかどか上がってきた。僕はパジャマのまま外に出された。外に出てびっくりした。そこは僕が初めて見る世界だった。僕の家の2件先の平屋が勢いよく燃えていた。熱くて煙くて涙が出てきた。
「あっ! 宮沢さんは?」
その平屋には宮沢さんという50歳ぐらいのおじさんが1人で住んでいた。僕が小さい頃、よく遊んでくれた。けれど最近はあまり姿を見かけなくなった。僕はお母さんを捜した。宮沢さんは無事なのだろか。
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宮沢さんは死んでしまった。自殺だった。灯油を被って火をつけたらしい。
「何で自殺なんてしたんだろう」
僕には全然わからなかった。明るい人だった。いつもガハハって銀歯を光らせて笑っていた。肩車してくれた。一緒にキャッチボールをやった。ラーメンを食べに連れて行ってくれた。ザリガニ釣りもやったし、ケンカして泥だらけで帰ってきた時も一緒に風呂に入って、僕の話をじっと聞いてくれた。
僕には宮沢さんが自殺するなんて信じられなかった。
「賢斗……」
お母さんが僕を呼んだ。そしてじっと僕の目を見つめて話してくれた。
「宮沢さんはね、心の病気になってしまってたの。とても元気になったり、落ち込んだり、とても苦しくなる病気だったの」
「心の病気?」
「そう。落ち込んでしまうと家から出られなくなっちゃうの」
だから最近、全然姿が見えなかったんだ。僕は思った。
「それでね、あの晩、町内会の人たちが皆で宮沢さんに元気になって欲しくて、励ましに行ったの」
僕は宮沢さんが町内のイベントの運動会や盆踊りや芋掘りとかに楽しそうに参加していた事を思い出した。宮沢さんのまわりには、いつも沢山の人がいて笑っていた。
「皆、宮沢さんに昔みたいに元気になって欲しかったの。ただそれだけだったの……うっ……うっ」
お母さんは泣いていた。
「うっ……頑張ろうよ……頑張ろうよって何度も言ったの」
頑張ろうって言っちゃいけなかったってお母さんはずっと言ってた。皆、知らなかったって。
暫くして僕はその意味を理解した。宮沢さんは、もう、いっぱい、いっぱい頑張っていたんだ。だからいっぱい頑張っている人にそれ以上『頑張って』って言っちゃいけなかった。
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あれから何十年たったのだろう。あの当時はまだ、鬱病や躁鬱病を知らない人が多かった。だから誰も悪くない。ただ、僕はあの日以来『頑張って』が言えなくなった。元気をなくしている人を見ても『頑張って』だけは言わなかった。トラウマになってしまったようだ。言い方は悪いが、人を励ます時に一番手っ取り早い言葉『頑張って』が僕には言えない。いや、コイツに言ってあげたらきっと勇気が出るだろう、やる気になるだろうという場面も数え切れないほどあった。それなのに僕は言えなかった。
果たしてそれが良かったのか悪かったのかさえも、未だに僕には分からない。