国旗損壊罪〜内心の自由
今回は、国旗損壊罪で、ネットでは一切話題にならないと感じる内心の自由について、説明します。
読んでいただけたら嬉しく思います。
内心の自由については、内心の不自由を説明すれば、わかりやすいです。
聖書には、汝、姦淫するなかれとあります。
そして目の前の女性を、頭の中で姦淫してしまった罪を告白し、懺悔するストーリーも聖書にはあります。
考えたから、罪。
神を疑ったら、罪というストーリーもありまして、こちらも考えたから、罪という話になります。
これが内心の不自由です。
人々の考える量刑が内心に及ぶ状態ですね。
西欧社会は、内心の不自由が、聖書と共に常に隣にあったのです。
実行したら罰則を伴う事、それは犯罪ですが、犯罪に類する事を考えること自体が罪であるのだ。
一方で日本人は、文化的に現金な所があり、罪というよりは、直接的な罰で考えます。
罰がなければ、罪に問われている訳ではない。
頭の中で、何を考えても自由だ。
頭の中でなら、暴力だって、姦淫だって、何だって良い。
実行しなければ、誰に迷惑をかけている訳ではないのだから。
宗教観もあり、日本人は、文化的に内心の自由に近い民族です。
ですから、悲しいですが逆説的に現代の日本人には、内心の自由という物に、疎い人も居るのかもしれません。
近代国家においては、国家がより強力になり、法治が整うにつれ、思想弾圧が徐々に争点になっていきました。
国家は、国民の何処にまで踏み込んで良いのか。
ひょっとして、こいつはこんな事を考えているかもしれない。
証拠は無いが、逮捕してやる。
果ては、その量刑は、拷問から死刑まで揃っている。
思想弾圧に証拠は必要ないのですから、冤罪で何万、何十万人もの人が死んで来ました。恐ろしいですね。
法治国家において、証拠のないものに量刑を課す事は、既に国家の暴走であり、国家の異常事態です。
独裁国家、ファシズムは思想警察、即ち思想弾圧の領域に踏み込み、全人類が憎むべき、その劣悪な問題点を自ら炙り出してきました。
大衆弾圧の容易な銃器の発展により、思想弾圧の難易度は、より簡易な方向へと臨界点へと達し、政治的に敵対している層は、冤罪だろうが全て殺してやるという、実力行使が可能となったのです。
そして、幾多の国がそれを部分的に、少数の国は全面的に実行してしまいました。
現代の民主主義国家において、主権者である国民の内心に、憲法が自由を保障するのは、法治国家としては、正に必然的な流れであったのです。
それが『内心の自由』です。
民主主義国家の政府は、主権者である国民の内心の自由を守らなければなりません。
国旗損壊罪では、国旗を尊重すべきだという論調が目立ちますが、内心の自由が保障されている以上、国旗をどう思おうが、それは、その人の心の自由です。
喜び、怒り、悲しみ、楽しむ。
我々の心の自由、思想の自由は、結果として、法治となり、民主主義となり、憲法となり、国家の暴走を防いでいるのです。
それは、我々日本市民にとって、日本に生まれた事を当たり前に享受出来るような、素晴らしい、喜ばしい事のハズです。
ですから国旗損壊罪は、国旗を愛するという議論は絶対的に前提とはなりません。
国旗損壊罪は、あくまでマナーと実害の話にしかならないハズです。
少なくとも、民主主義国家の立法府の立場としては。
結果として、国旗損壊罪では、実際に実害があるかどうか、既存の法体系で対応出来ないかの、立法事実が問われているのです。
メディアを含む公的な議論が内心の自由に及ぶ時、それは、ホラー映画のように恐ろしい事ですが、決して教育が足らない訳ではなく、時の権力者が国民を支配したいというファシズムの目覚めです。
SNSでの議論が、内心の自由に及ぶ時、それは、民度の低い行為をSNSで見る事と同じように嘆かわしい事ですが、現代教育の敗北とも言えます。
しかし、内心の自由を説明するのに、人類の歩みの一歩一歩を説明する時、内心の自由は、決して万人にわかり難い話ではないと、私は思うのです。
内心の自由の理解が、まるで小学生のさんすうのように簡単である事は、非常に喜ばしい事です。




