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時禍戦記 ―時を喰らう者―  作者: 綾瀬 灯


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第八章・刻の核

 朽ちた祠の破片がまだ地面に散らばる中、谷は静寂を取り戻しつつあった。だがその静けさは薄氷のように脆く、踏み込めば必ず割れる。玄斎は膝に手をつき、胸の奥に残る空白を確かめるようにゆっくりと息を吐いた。朔は父の傍らに立ち、目は祠の奥へと向けられている。ユラは符の残滓を手のひらで払いつつ、失われた記憶の欠片を探すように辺りを見回した。


「祠の奥に、何かがある」


ユラの声は低かった。彼女は祠の床に残る古い文様を指差す。文様は鏡の破片が飛び散った衝撃で歪み、だがその中心だけは不自然に光を帯びていた。光は冷たく、まるで時間そのものが凝縮したかのように震えている。


玄斎は立ち上がり、文様の中心へと踏み込む。そこに埋められていたのは、小さな黒い核だった。石でも鉄でもない、触れれば冷たく、見つめれば吸い込まれそうになる異質な塊。ユラの指先が震え、朔の瞳が鋭く光る。


「時の核……」


ユラが囁いた。


「これが、術の核。可能性を喰らい、歪みを固定する器だ」


その言葉が落ちると同時に、谷の空気が再びざわめいた。地面の亀裂から蒼い煙が立ち上り、空の輪郭が細かく震える。忠成の残党が祠の周囲に潜み、まだ息を潜めている。彼らは敗れたが、核を守るために最後の一撃を狙っているのだ。


「核を破壊すれば、歪みは収まるのか」


玄斎の問いに、ユラは首を振った。


「破壊は一つの方法だが、核は時間の因果を繋ぐ結び目でもある。無理に壊せば、周囲の時間が一気に崩壊する。核を解くか移すか。どちらも代償が必要だ」


朔は静かに前へ出た。彼の手は震えていない。若者の顔には、これまでにない決意が宿っている。


「代償を払うのは、私でもいい」


朔の声は低く、しかし揺るがなかった。


「私が核を受け止める。未来の可能性を一つに縛る代わりに、私の存在を安定させる」


玄斎の胸に、父としての恐れが走る。朔を核に触れさせることは、朔の存在を永久に変えるかもしれない。だが同時に、核が放置されれば、時の歪みは再び広がる。玄斎は刀の柄を握りしめ、言葉を選んだ。


「朔、お前は本当にそれを望むのか。消えることと、安定することの違いを、お前は理解しているのか」


朔は一瞬だけ目を閉じ、過去の断片を探るように眉を寄せた。やがて目を開けると、その瞳は静かに光った。


「私は消えるつもりはない。だが私が核を抱くことで誰かが失うならば、それは私が背負う。父上、私は自分の未来を選ぶ」


言葉は短く、しかし重かった。玄斎は刃を鞘に戻し、朔の肩に手を置いた。弥八がそっと近づき、朔の背を支える。ユラは符を胸に押し当て、最後の準備を整える。


その瞬間、谷の入口から一群の影が飛び込んできた。忠成の残党ではない。黒い鎧に銀の紋を刻んだ一隊、見慣れぬ旗を掲げる者たちだ。先頭に立つのは、かつて玄斎と同盟を結んだはずの大名の使者──だがその顔は仮面で覆われ、目だけが冷たく光っている。


「何者だ」


玄斎が問いかけると、使者は仮面の奥から低く笑った。


「時は一人のものではない。核を手にする者が新たな秩序を作る。忠成はその先駆けに過ぎぬ。お前たちの小さな勝利は、我らの到来に比べれば些細なものだ」


戦端が開かれた。仮面の一隊は一斉に襲いかかり、谷は再び血と時間の混濁に飲み込まれる。だが今回は様相が違った。仮面の兵たちは時間の波を自在に操り、斬撃を遅らせ、矢を瞬間的に消し去る。彼らの動きは機械のように正確で、戦場は瞬く間に押し込まれていく。


玄斎は弥八と共に前へ出て、仮面の兵を迎え撃つ。刃がぶつかり、火花が散る。朔は核の前に立ち、両手を伸ばした。蒼い光が彼の周囲を巻き、核は微かに震える。ユラは詠唱を始める。だが仮面の使者は冷ややかに笑い、術の波を逆手に取ってユラの詠唱を乱す。


「ユラ!」


玄斎が叫ぶ。だが声は風にかき消され、仮面の兵がユラへと迫る。弥八が割って入り、刃を交える。弥八の動きは荒々しく、だがどこか焦りが混じる。仮面の兵は弥八の一撃をかわし、致命の一突きを放つ。刃は弥八の腹を貫き、彼は血を吐いて膝をついた。


「弥八!」


玄斎の叫びが谷に響く。朔の手が一瞬震え、核の光が揺らぐ。ユラは符を振り、術の波を押し返そうとするが、仮面の使者が一歩前に出て、彼女の視界に冷たい刃を突きつけた。


「止めろ」


仮面の声は低く、命令のように響いた。


「核を渡せ。さすればここに新たな秩序を築こう」


朔は振り返り、父と弥八の姿を見た。血の匂いが風に混じり、時間の裂け目が再び広がる。朔の胸にある決意が固まる。彼は核を抱きしめるように前へ踏み出し、声を張り上げた。


「この核は誰のものでもない。未来は奪うものではない、守るものだ」


その言葉が谷に落ちると、核の光が一瞬だけ白く輝いた。朔の体が光に包まれ、輪郭が強く、確かに見えるようになる。仮面の使者は驚きの声を上げ、兵たちの動きが一瞬止まる。その隙に玄斎は最後の力を振り絞って突進した。


刃が交わる。光が炸裂する。弥八は血を吐きながらも立ち上がり、朔を守るために体を投げ出す。ユラは符を胸に押し当て、詠唱の最後の一節を叫ぶ。核は朔の胸で震え、彼の中で何かが変わり始めた。


だが変化は痛みを伴う。朔の体から蒼い糸が溢れ、時間の断片が彼の周囲で砕け散る。彼は叫びを上げるが、その声はどこか遠く、父の耳には届かない。仮面の使者はその隙を突き、朔へと斬りかかる。


玄斎は全てを賭けるように飛び込み、刃を受け止めた。二人の刃がぶつかり、火花が夜空のように散る。朔の体は光の中で揺らぎ、核の光は頂点に達した。ユラの詠唱が最後の音を放つと、核は一瞬だけ静止し、そして──


光が弾けた。谷は白い閃光に包まれ、音が消え、時間が一瞬止まったかのように感じられた。次の瞬間、全てが戻る。だが戻った世界は、どこか違っていた。空の色が少し浅く、風の匂いが変わっている。朔は地面に膝をつき、胸に手を当てている。弥八は倒れ、だが息はある。玄斎は刀を握りしめ、顔には新たな決意が刻まれている。


仮面の使者は消え、兵たちは混乱の中で散り散りになった。核は朔の胸の中で静かに消えかけている。ユラは膝をつき、額に手を当てて震えている。だが誰もが感じていた──何かが変わった。時の流れは戻ったが、刻の核が残した痕跡は、彼らの内側に深く刻まれている。


朔はゆっくりと顔を上げ、父を見た。目には疲労と安堵が混じる。だがその奥に、まだ見ぬ未来を見据える光が宿っていた。玄斎は朔の肩に手を置き、短く呟いた。


「行くぞ。まだ道は続く」


谷の風が答えるように吹き、葉がざわめいた。だが遠く、空の裂け目の端で、また小さな光が瞬いた。誰も気づかぬうちに時は再び息を潜め、次の禍を準備している。

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