蜻蛉
御簾の奥より聞こえる野鳥のさえずりに、房子は手にした筆をそっと置いて目を伏せた。御簾をほんのわずかに上げ、誰かに見咎められぬよう扇で顔を隠して庭をのぞくと、十二単の衣ずれの音に驚いたのか、野鳥はすでに姿を消していた。
雀か鴉か定かでない。力強い羽ばたきの音が残響のように聞こえて、房子は扇越しに空を見上げた。あっという間に遠くへ羽ばたいた鳥が、影のように薄曇りの空に飛んでいく。
「これ。御簾の外に出るなどはしたない」
女主人に仕える女房仲間が几帳をそっとくぐって、房子の元へとやってきた。腕には菖蒲が乗っており、かぐわしい。これから女主人に届けるのだろう。
「房子殿、宿下りを望んでいるというのは本当ですか」
房子は扇の奥で遠慮がちにうなずいた。
房子たちの女主人である女御は、決して位が高いとは言えぬ。後ろ盾である女御の父も老齢で、そろそろ隠居する頃合いではないかと噂されている。
「はい。まだ女御様にお話ししてはおりませんが」
「体調がすぐれぬとか」
「ええ。しかし、このような折りですから──」
跡を継ぐと目されていた女御の兄の一人が、急に病で亡くなった。女主人が袖を目元に当てて悲嘆にくれるさまを聞き、女房たちはあれこれと心を尽くしたが、女御の心細さたるや如何ばかりであろう。
房子を訪ねてきた女房仲間も、わずかばかりの慰めにと女主人に菖蒲を届けるつもりに相違ない。
女御には他にも兄がいるから、いずれは誰かが後を継いで後ろ盾になるだろうが、兄が亡くなったのには代わりない。家中での後継ぎ問題や、他の貴族たちとの権力闘争が起きる可能性も捨てきれない。
そのようななかで、女御様を置いていけるものか。房子はなかなか切り出せずにいる。宿下りは、しばらく叶いそうになかった。
二言三言世間話をしたのちに、女房仲間は几帳の奥へと戻っていった。
房子の目の前を、ふわりと小さな蜻蛉が飛んでいく。菖蒲についていたのだろう。
漂うような心許ない羽ばたきに、房子は御簾にそっと手を伸ばして蜻蛉を外に導いた。
儚い命なら、なにも縛られることはない。鳥のように力強く羽ばたくことはできなくとも。
<おわり>




