第三章:白紙の本と、刻印の絶叫
薄暗い中庭。ハクレンは静寂を切り裂くように木刀を振るっていた。
「おはようございます、ハクレンさん」
挨拶をすると、彼はピタリと動きを止め、私を鋭い眼光で見つめた。
「おはよう、夏。さて、まずは確認だ。お前さんは何ができる? 魔法か、あるいは授かった特殊能力か。異世界人は皆、何かしら特別な力を与えられているはずだ。お前の能力は何だ?」
「えっ……私、自分が何か持ってるなんて知らないです」
私の答えに、ハクレンは呆れたように肩を落とした。
「はぁ? 待て待て、ワシが会ってきた異世界人は皆、自分の能力を把握していたぞ。あの『女の顔をした神』から授かったと……」
「女の神様……? いえ、私が会ったのは宙に浮いている男の人です。世界を救ってほしいと言われて……」
ハクレンの表情が微かに曇る。
「……男だと? 異世界の案内人が違うのか。……ふむ、この話は長くなりそうじゃ、一旦置こう。まずは基礎だ。木刀を受け取れ。ワシの真似をして素振りをしてみろ」
言われるがままに木刀を振るが、20分もしないうちに腕が鉛のように重くなった。
「ハクレンさん……もう限界です。あとどれくらい……」
「最低でも1時間は振り続けられんと話にならん。まだ20分じゃ、甘えるな!」
ハクレンの激に、私は歯を食いしばって腕を上げた。
その頃、買い出しに出ていた桜は、街の路地裏で突如として胸を掻きむしった。
「……ッ! 連絡が……」
逃げ込むように人目のない場所へ移動し、胸元を押さえる。脳内に、汚物のような男の声が直接響き渡った。
(遅いぞ、この屑奴隷が!! 連絡を入れたら即座に返せ。……躾が必要なようだな)
「あ、ああぁぁぁッ!?」
桜の全身を、数千本の針で刺されるような激痛が襲う。彼女は地面をのたうち回り、涙ながらに許しを乞うた。
「ごめんなさい……やめて、やめてください! ちゃんと返事しますから、あ、あああぁぁぁッ!」
痛みが引き、男の嘲笑が響く。
(何か面白い情報はないか。……お前の仲間の異世界人が増えたそうだな?)
「……私と、同じ異世界人の女性が一人、保護されました……」
(何故それをすぐに報告しない!? やはり躾が足りんか!)
「やだ、もう痛いのは嫌……! 言うこと聞くから、お願い、やめて……ッ!」
(いいだろう。俺は優しいからな。代わりに『仕事』をやる。近いうちにその女を強奪しに行く。その時、ハクレンの食事に薬を混ぜろ。……次はもっと酷い躾だ。忘れるなよ)
声が消えると同時に、桜は泥の上に蹲り、嗚咽を漏らした。
「……死にたい。誰か、助けてよ……。この『異世界人専用の刻印』さえなければ、自ら命を絶てるのに……ううぅあぁあああぁ!」
この世界が生み出した最悪の呪い――死ぬことさえ許されない隷属。桜の涙は、冷たい地面に吸い込まれていった。
中庭では、私がハクレンの素振りを観察していた。
「……ずっと振り続けているのに、一向に形が崩れない。凄い。……ハクレンさん、その腰につけている本は何ですか?」
ハクレンは動きを止め、腰に差した一冊の本に触れた。
「これか? これは、ワシの友だった異世界人の女性――鈴がくれたものじゃ。だが、中身は何一つ書かれていない白紙の本でな。何故こんなものをワシに託したのか、未だに分からんのじゃ」
「白紙……? 本当ですか?」
差し出された本を受け取り、私はページをめくった。ハクレンが白紙だと言ったその紙面には、見たこともない複雑な文字が、びっしりと書き込まれていた。
「……ハクレンさん、これ、白紙じゃないです。読めないけれど、文字が書かれています!」
「何だと……? ワシには何も見えん。……そうか、異世界人にしか見えぬよう術がかけられているのか。……夏、その本はお前が持っておれ」
「えっ、いいんですか?」
「ああ。鈴もそれを望むだろう。もし解読できたら、ワシにも教えてくれ」
私はその重みを感じながら、大切に本を抱えて部屋へと戻った。
一人残されたハクレンは、空を見上げて独り言を漏らした。
「鈴よ。あの日、解呪不能の『異世界人専用の刻印』で無理やり魔王討伐へ送り出されたお前が、何故この本を……。魔王が生み出したあの呪いが、どれほど異世界人の運命を狂わせたか……」
ハクレンの瞳には、かつての友を守れなかった悔恨が滲んでいた。
彼は再び木刀を構える。その振るいには、呪われた世界への静かな怒りが込められていた。




