第三章:偽りの神と、奈落の異世界
「本当にやってくれるとは思いませんでしたよ」
暗闇の中でニタニタと笑い、宙に浮く影。犯人の男はその姿を見上げ、荒い息を吐きながら言い放った。
「約束は守った……俺を助けろ。だがその前に、こいつで楽しませろ。少しの間、消えてろよ」
男の汚れた手が、再び私の服を裂こうと伸びてくる。私は絶望の中、宙に浮く「神」を仰ぎ見た。その存在は私を見下ろし、音もなく唇を動かす。
――『い』『き』『た』『い』『か』?
私は必死に、微かな力で頷いた。
その瞬間、男が激しく咳き込み、自らの胸を掻きむしった。口から泡を吹き、獣のような声を上げてのたうち回る。やがてピクリとも動かなくなった男の姿を最後に、私の意識は深い闇へと沈んでいった。
次に目が覚めたとき、視界を占領していたのは、先程の「神」の顔だった。
「……夢?」
「いいえ、現実です。そして貴方はあの時死んだ。ここは天国と地獄の狭間ですよ」
恐る恐る体を起こすと、あんなにひどかった痛みは消え、傷一つ残っていなかった。私は焦燥に駆られ、彼に詰め寄った。
「冬は……妹はどうなったの? ここにいるの!?」
「ああ、君と同じ顔の子ね。彼女はもうここにはいない。行ってしまったよ」
神を自称する男は、芝居がかった仕草で首を振る。
「私の世界を助けてほしいと頼んだら、彼女は快く引き受けてくれた。……信じるかどうかは君次第だが、彼女に再会したければ、君も行くしかない。どうせ元の場所には戻れないんだ。新しい世界で生きればいいじゃないか」
「……その世界に行けば、冬に会えるの?」
「今すぐ行くと決めればね。確実ではないが、可能性はある。さあ、選んで。このまま消えるか、妹を追うか。私の力も無限ではない、急いでほしいな」
私は迷わなかった。たとえどんなに不気味な男の言葉でも、冬が生きている可能性があるのなら。
「行きます。冬が行った場所へ……私も行きます」
男が満足げに微笑む。「良い旅を」という言葉と共に、私の意識は再び霧散した。
夏が消えた静寂の中で、男は堪えきれないといった様子で吹き出した。
「くくく……ははははは! 『世界を助けてほしい』? 嘘に決まっているだろう。そんな安い正義感で騙されるなんてね」
男の瞳に宿るのは、底冷えのする愉悦。
「異世界人を呼び寄せては、死ぬまでの過程を観察するのが一番の娯楽なんだ。さて、あの双子はどこまで私を楽しませてくれるかな?」
見知らぬ森の地面で意識を取り戻した私は、すぐに立ち上がって周囲を見渡した。
「……ここが、あの人の言っていた世界?」
とにかく冬を探さなければ。当てのないまま歩き出すと、茂みの向こうで不気味な物音がした。
そこにいたのは、緑色の醜悪な肌をした小鬼
――ゴブリン。
死んだ鳥の肉を貪り食うその悍ましい光景に、私は吐き気を覚えた。
(……漫画や小説に出てくる、異世界転生……?)
足音を立てないよう通り抜けようとしたが、無情にも乾燥した小石が音を立てる。
「ぐえええぐぐえ!」
耳を劈く雄叫び。瞬く間に、茂みから無数のゴブリンが現れ、私を包囲した。
「……ま、待って。こういう時って、何か魔法とかあるはずよね!? 燃えよファイヤー! ……水よ穿て、ウォーターボール!」
必死に手を突き出すが、何も起きない。掌からは火も水も出ず、ただ虚しく空気を切るだけだった。
「嘘、何もないの……!? 逃げなきゃ!」
反転して走り出すが、魔物の足は速い。背後から押し倒され、腐敗臭のする吐息が顔にかかる。
「離して、離してよ!」
抵抗虚しく、鋭い爪が私の太ももに突き刺さった。
「痛っ……! やだ、こんなところで……誰か、助けて! 冬ッ!」
「――危ないところであったな」
突如として現れた老人が、一振りの木刀でゴブリン共を蹴散らした。
「ワシが通らねば死んでおったぞ。そもそも、丸腰でこのような場所に来る主が悪いのだがな」
老人は腰に木刀を収め、私をまじまじと見つめた。
「……助けていただき、ありがとうございます。あの、ここはそんなに危険な場所なんですか? 気がついたらここにいて……」
「ふむ。嘘を言っているようには見えんの。……行き場がないなら、ワシの家で面倒を見てやろう」
私は差し出された救いの手に縋るように頷き、老人の後を追った。
この世界のどこかにいるはずの、冬の名前を心の中で呼び続けながら。




