第二章:絶望の帰路と、血塗られた奉仕
「おはよう……じゃなくて、こんにちは!」
勢いよく教室の扉を開けた私の横で、冬はいつものように小さく会釈をした。
「夏、冬、ちっす! 大変なことになってるね。犯人、まだ捕まってないじゃん」
仲の良い友達が、心配そうに声をかけてくる。鞄を席に置きながら、私は溜息をついた。
「そうなのよ。早く捕まってほしいわ」
「まぁ、時間の問題でしょ。監視カメラも目撃者だっているんだから」
そんな会話を交わしながら過ごす放課後。私たちは部活に入っていないため、いつものカフェで友達としばらく話し込んでしまった。
ふと携帯を確認すると、時刻は17時43分。
「もうこんな時間。そろそろ帰らなくちゃ」
「そうね。あまり遅くなると怖いし、犯人のことも気になるから」
友達に見送られ、私たちはカフェを後にした。
家へ向かう道中、ビルに掲げられた巨大なスクリーンが夜の街を照らしていた。
『速報:駅前殺傷事件の犯人、依然逃走中。行方不明――』
「……まだ捕まらないんだ。冬、早く捕まってほしいよね」
不安を紛らわせるように問いかけると、冬は真っ直ぐ前を見つめたまま答えた。
「そうね。捕まってくれれば、明日から安心して学校に行けるのに」
ようやく辿り着いた家の前。しかし、冬が私の服を強く引っ張り、足を止めた。
「……おかしいわ。お父さんもお母さんも休みで家にいるはずなのに、電気が一つもついてない」
嫌な予感が胸を掠める。けれど私は、それを振り払うように笑ってみせた。
「買い物にでも行ってるのよ。とりあえず入りましょう」
鍵を差し込み、回す。……ガチャリ、という音とともに扉が閉まった。
「あれ? 鍵が開いてた……? 閉め忘れて出かけたのかな」
嫌な汗が背中を流れる。私が再び鍵を開けようとしたその時、冬が震える声で言った。
「夏、やっぱりおかしい。ここから離れよう――」
その言葉が終わるより早く、玄関の扉が内側から勢いよく開いた。
闇の中から伸びてきた太い腕が、私を後ろから羽交い締めにし、喉元に冷たい金属の感触を押し当てる。
「ようやく帰宅か。さあ、中に入れ。叫んだら即座に喉を掻き切るぞ」
男の濁った声。包丁の冷たさに、私は呼吸を忘れた。
「分かった……言う通りにするから。夏に酷いことはしないで」
冬が必死に男を宥め、私たちは死神に導かれるように暗い家の中へと引きずり込まれた。
「鍵を閉めろ!」
男の命令に従い、冬が震える手で鍵をかける。
暗闇の中を、男に突き飛ばされるようにして奥へ進む。その時だった。通り過ぎる車のヘッドライトが、窓越しに一瞬だけ廊下を照らし出した。
光の中に浮かび上がったのは、トイレの前で物言わぬ肉塊と化した父親の姿。
「お、お父さん……? 死んでるの……? 嘘……」
冬がその場にへたり込み、混乱に陥る。男は下卑た笑いを浮かべた。
「安心しろ、すぐにお前らも同じところへ行かせてやる。……だが、まだ死にたくねえだろ? なら、俺に奉仕しろ。高校生なら意味は分かるよな? 部屋へ行け。さっさと動け!」
私を盾にしたまま、男が寝室へと進もうとする。
(このままじゃ、二人とも殺される……せめて冬だけでも……!)
私は覚悟を決め、自分を拘束している男の腕に思い切り噛みついた。
「うげぇ、痛えっ!」
男が怯んだ隙に、私は叫んだ。
「冬、早く逃げて!!」
「嫌、待って、やめて!!!」
冬の絶叫が響くと同時、私の背中に焼き付くような痛みが走った。
「いぎゃあぁぁあ!!」
背後から突き立てられた包丁。私は地面に押し倒され、髪を無理やり掴み上げられる。
「死にたいんだな、このガキが! このまま抉り出してやろうか!」
激痛で声も出ない私を、冬が涙ながらに制止した。
「言うこと聞くから……夏を、夏をこれ以上傷つけないで! 殺さないで!」
男はニヤニヤしながら、刺さった包丁をゆっくりとグリグリと回した。
「ひぎいぃぃああぁぁあ!」
「やめて! 何でもする! 何でもするから!
」
「何でも、ねぇ……。なら、ここで裸になれ。そうすりゃ許してやらんこともない」
冬は震える手で制服に手をかけ、服を脱ぎ始めた。
男の意識が、冬の肢体へと集中する。包丁を握る手の力がわずかに緩んだその瞬間。
「――今だッ!」
冬は脱ぎ捨てた制服を男の顔面に投げつけ、全霊の力で突撃した。
壁に頭を強打し、男が呻き声を上げる。
「夏、絶対に助けるから!」
冬は瀕死の私を背負うようにして、出口へ向かおうとした。
だが、地を這う男の手が冬の足を掴んだ。
二人の体が重なり合うように倒れ込む。
「クソガキが……もういい、殺してやる」
男の怒声とともに、銀光が何度も冬の背中に振り下ろされた。
「ああぁっ!」「う、あぁっ!」
刺されるたびに上がる冬の叫び。しかし、それもやがて、小さく途切れ途切れの呼吸へと変わっていった。
……私の意識が遠のく中、冬の叫び声が聞こえなくなった。
静寂。そして、男が私に近づいてくる気配。
「お前もどうせ死ぬんだ。その前に、存分に楽しませてもらうぜ……」
服が引き裂かれる音が響く。私は指一本動かせず、なすがままに死を待っていた。
その時。
突如として男が動きを止め、背後を振り返った。
朦朧とする視界で、私もその方向を見る。
そこにいたのは、重力に逆らうようにして、薄暗い部屋の宙を漂う「人物」だった。




