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キラキラを忘れた夜に

作者: 北大路京介
掲載日:2025/12/19

夜の匂いが濃くなるころ、喫茶店ルミエールの扉が、そっと鳴った。


「いらっしゃいませ」


女性は静かに言った。声は落ち着いていて、でもどこか柔らかい。 彼女はこの店で働いている。キラキラを失った人だけが入れる、不思議な喫茶店で。


扉の向こうに立っていたのは、青年だった。 肩が少し落ちていて、目の奥に曇りがある。


「……ここ、やってるんですね。こんな時間に」


「ええ。夜のほうが、お客さんが来やすいみたいで」


青年は苦笑した。


「来やすいって……僕みたいなのが、ってことですか」


女性は答えず、カウンター席を指した。


「温かいもの、飲みますか」


「……じゃあ、コーヒーを」


青年が腰を下ろすと、店内の静けさがふっと深くなる。 カップに注がれるコーヒーの音だけが、やさしく響いた。


「どうぞ」


青年は一口飲んで、目を細めた。


「……なんか、懐かしい味がします」


「そう感じる人、多いんです」


青年はカップを見つめたまま、ぽつりとつぶやいた。


「僕、最近、何をしても楽しくなくて。  仕事も、友達と会うのも、全部……色がないっていうか」


女性は少しだけ首をかしげた。


「色がない、ですか」


「はい。昔はもっと、なんでもキラキラして見えたんですけどね。  最近は……全部、灰色です」


女性はカウンター越しに青年を見つめた。 その目は、相手の言葉の奥をそっと覗き込むような、静かな光を宿している。


「キラキラって、どんなときに見えていましたか」


青年は考え込む。


「……うーん。子どものころは、なんでも楽しかったんですよ。  走るだけで笑ってたし、空見てるだけでワクワクしてたし」


「今は」


「今は……疲れますね。空、見上げるのも」


女性は小さく笑った。


「空は、変わっていませんよ」


「……そうなんですけどね」


青年は肩を落とした。


「僕が変わっちゃったんです」


女性はカウンターの下から、小さなガラス瓶を取り出した。 中には、光の粒のようなものが、かすかに揺れている。


「これ、なんだと思いますか」


青年は目を丸くした。


「……光ってる。蛍……じゃないですよね」


「あなたが、さっき思い出した“昔の気持ち”です」


青年は言葉を失った。


「そんな……そんなの、瓶に入るわけ……」


「入るんです。思い出した瞬間だけ、少しだけ形になるんです」


青年は瓶を見つめた。 光は弱々しいけれど、確かにそこにあった。


「これ……僕の、キラキラなんですか」


「全部ではありません。ほんの欠片です」


青年は瓶を両手で包んだ。


「……あったんだ。まだ、残ってたんだ」


女性は静かにうなずいた。


「なくなったわけじゃありません。  見えなくなっていただけです」


青年はしばらく黙っていた。 店内の静けさが、彼の呼吸をゆっくり整えていく。


「……僕、もう少し頑張ってみます」


「頑張りすぎなくていいですよ」


「いや、そうじゃなくて……」 青年は照れたように笑った。 「もう一回くらい、空を見上げてみようかなって」


女性も、ふっと笑った。


「それなら、いいと思います」


青年は立ち上がり、深く頭を下げた。


「ありがとうございました。なんか……少しだけ、明るいです」


「お気をつけて」


扉が閉まると、店内は再び静かになった。 女性は青年が座っていた席を見つめ、そっとつぶやく。


「……キラキラ、か」


彼女の胸の奥にも、まだ見つからない光がある。 それはずっと前に失ったもので、まだ形にならない。


けれど、誰かのキラキラを見つけるたびに、 自分の中の暗がりが、ほんの少しだけ薄くなる気がしていた。


カウンターの奥で、ガラス瓶がひとつ、かすかに揺れた。 その中には、彼女自身の光の欠片が、まだ眠っている。


「……いつか、見つかるといいな」


そうつぶやいて、女性は次の客を迎える準備を始めた。


夜はまだ、長い。

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