キラキラを忘れた夜に
夜の匂いが濃くなるころ、喫茶店の扉が、そっと鳴った。
「いらっしゃいませ」
女性は静かに言った。声は落ち着いていて、でもどこか柔らかい。 彼女はこの店で働いている。キラキラを失った人だけが入れる、不思議な喫茶店で。
扉の向こうに立っていたのは、青年だった。 肩が少し落ちていて、目の奥に曇りがある。
「……ここ、やってるんですね。こんな時間に」
「ええ。夜のほうが、お客さんが来やすいみたいで」
青年は苦笑した。
「来やすいって……僕みたいなのが、ってことですか」
女性は答えず、カウンター席を指した。
「温かいもの、飲みますか」
「……じゃあ、コーヒーを」
青年が腰を下ろすと、店内の静けさがふっと深くなる。 カップに注がれるコーヒーの音だけが、やさしく響いた。
「どうぞ」
青年は一口飲んで、目を細めた。
「……なんか、懐かしい味がします」
「そう感じる人、多いんです」
青年はカップを見つめたまま、ぽつりとつぶやいた。
「僕、最近、何をしても楽しくなくて。 仕事も、友達と会うのも、全部……色がないっていうか」
女性は少しだけ首をかしげた。
「色がない、ですか」
「はい。昔はもっと、なんでもキラキラして見えたんですけどね。 最近は……全部、灰色です」
女性はカウンター越しに青年を見つめた。 その目は、相手の言葉の奥をそっと覗き込むような、静かな光を宿している。
「キラキラって、どんなときに見えていましたか」
青年は考え込む。
「……うーん。子どものころは、なんでも楽しかったんですよ。 走るだけで笑ってたし、空見てるだけでワクワクしてたし」
「今は」
「今は……疲れますね。空、見上げるのも」
女性は小さく笑った。
「空は、変わっていませんよ」
「……そうなんですけどね」
青年は肩を落とした。
「僕が変わっちゃったんです」
女性はカウンターの下から、小さなガラス瓶を取り出した。 中には、光の粒のようなものが、かすかに揺れている。
「これ、なんだと思いますか」
青年は目を丸くした。
「……光ってる。蛍……じゃないですよね」
「あなたが、さっき思い出した“昔の気持ち”です」
青年は言葉を失った。
「そんな……そんなの、瓶に入るわけ……」
「入るんです。思い出した瞬間だけ、少しだけ形になるんです」
青年は瓶を見つめた。 光は弱々しいけれど、確かにそこにあった。
「これ……僕の、キラキラなんですか」
「全部ではありません。ほんの欠片です」
青年は瓶を両手で包んだ。
「……あったんだ。まだ、残ってたんだ」
女性は静かにうなずいた。
「なくなったわけじゃありません。 見えなくなっていただけです」
青年はしばらく黙っていた。 店内の静けさが、彼の呼吸をゆっくり整えていく。
「……僕、もう少し頑張ってみます」
「頑張りすぎなくていいですよ」
「いや、そうじゃなくて……」 青年は照れたように笑った。 「もう一回くらい、空を見上げてみようかなって」
女性も、ふっと笑った。
「それなら、いいと思います」
青年は立ち上がり、深く頭を下げた。
「ありがとうございました。なんか……少しだけ、明るいです」
「お気をつけて」
扉が閉まると、店内は再び静かになった。 女性は青年が座っていた席を見つめ、そっとつぶやく。
「……キラキラ、か」
彼女の胸の奥にも、まだ見つからない光がある。 それはずっと前に失ったもので、まだ形にならない。
けれど、誰かのキラキラを見つけるたびに、 自分の中の暗がりが、ほんの少しだけ薄くなる気がしていた。
カウンターの奥で、ガラス瓶がひとつ、かすかに揺れた。 その中には、彼女自身の光の欠片が、まだ眠っている。
「……いつか、見つかるといいな」
そうつぶやいて、女性は次の客を迎える準備を始めた。
夜はまだ、長い。




