第2話 ルールの縫い目(仮設拠点/夜昼逆転/ポイントという罠)
アーケードの吹き抜けに横たわる暗がりは、昼であるにもかかわらずどこか緞帳の裏側のように質量を帯びて重く、割れた天窓の四方からこぼれ落ちる薄い光は埃の流れを可視化するだけで温もりをもたらすことはなく、等間隔に並ぶシャッターは歯列の悪い口のように噛み合わない音を立て、そこに十二人の人間が寄り集まり、互いの影を踏み合いながら自己紹介と所持品の点検を始めるのだが、名前や職業の断片は口から出るのに、つい昨日の夜に何を食べ、誰と話し、どの電車に乗ってどこへ向かったのかという筋道だけは、指先ですくってもすくっても穴の開いたザルのように水がこぼれ落ちるばかりで、誰の額にも同じ形のこめかみの痛みが浮き出ているのが不気味なほど共通していた。
医療系だと名乗った沢渡結衣は、落ち着き払った声で応急処置の手順を確認しながらも、瞳の奥で先ほどの崩落の血痕を何度も反芻しているらしく瞬きのたびに細い震えを見せ、体力には自信があると笑った篠森玲奈は、笑みの形だけは軽やかなくせに肩甲骨の下に緊張を固めており、判断が早い桐生鷹哉は、声を低く保ちながらも誰より先に壁と柱の耐荷重を目測する視線を放ち、寡黙な日暮蓮は列の端でポケットに手を突っ込んだままドームの天窓を見上げて人工雲の流れが一定の周期で反転することに気づいているのに何も言わず、饒舌な投資ブロガーを自称する男は、ありもしない視聴者にでも話しかけるように「こういうときは情報と流動性が命でしてね」とやけに滑らかに舌を回し、無口な老女は名を名乗ることを拒み、ただ「覚えなくていいものは覚えないのが長生きの秘訣さ」と呟いてから手のひらの深い皺の間に布タグを押し込み、元舞台照明の男は崩れかけた照明リグの角度を正しく言い当てる代わりに自分の生年をうまく言葉にできず、看護学生の少女は包帯やテーピングの扱いに迷いがないのに家族構成だけが穴のように空白で、崩落で傷を負った青年は、さっきまでそこにいたのに、まるでこの街の床に染みて流れた液体の一部になったかのように、いまは名前の余韻と血の匂いだけを残して、この場の「十二人」という数の中から静かに勘定を消されている。
御堂瞬は、自分の番がまわってきたとき、「元ゲーム開発」とだけ言った、言いながら言葉の奥に引っかかるものがあった、会社名も部署も、最初に携わったチュートリアルのボタン配置も、いまの自分なら数秒で言えるはずなのに、舌先が見知らぬドアに触れたときのように拒絶の感触を返し、喉に小さな鍵が引っかかったように息の流れを邪魔したから、御堂はそれ以上を言わず、代わりにポーチから取り出したHUDカードの表面を指でなぞり、わずかに油膜のような虹が走るのを見つめていた。
カードを起動すると、規定フォーマットの“観察ログ”が開く、対象者、行動、結果、推測、感情評価と並ぶ項目は、研究室で見た倫理審査書類の白さを思い出させるほど簡潔で、しかし最下段の「感情評価」という欄が、御堂の胃袋をじわりと冷やした、恐怖・驚愕・嫌悪・高揚・納得といった感情が数値で入力できるようになっており、滑り止めのついたスライダーを左右に動かすと即時にプレビュー値が変わる、誰か、これを設計した者は、観察者の体験そのものを測定項目に入れ、それを多分、報酬と連結させている、つまり、見て、感じて、記録することが、“何か”にとって栄養であり、興行であり、指標であるのだ、では誰が観客なのか、どこでそれを消費しているのか、どこに拍手の音が渦巻いているのか、考えた途端、耳の後ろでざざっと砂の音がした。
御堂は、先ほどの崩落の場面を、定型どおりに記述した、対象:被験者12、行動:アーケード二階通路を歩行中、天井パネル落下、結果:足部重度挟圧、短時間後に心肺停止、推測:落下角に意図性あり、誘発/誘導の可能性、感情評価:恐怖73、驚愕61、嫌悪48、納得3、高揚2と指を動かし、送信を押した瞬間、HUDが短く震え、画面上部に薄灰色の返答が現れる、「良質な記録です。補給ボックスのヒントを送付」、その文言の乾き方があまりにも機械的で、しかも添付されたヒントが長々とした手順説明などではなく、ただ座標値のみであることが、御堂の背中をうっすらと汗ばませ、玲奈に見せると彼女は肩をすくめ、犬をなだめるように掌を上下させながら「餌付きね、犬の散歩と同じ、うまく歩いたら次の匂いを嗅がせてもらえるってわけ」と笑い、しかし笑いの背で手首の脈がほんのわずか速まっているのを御堂は見逃さなかった。
日が暮れる、いや、正確には、日没ではなく、ドームの照明色が段階的に落ち、空調の人工風が止み、吹き抜けの埃が宙で静止し、それからゆっくりと沈降を始める、ある閾値を超えると、世界全体がわずかに低い位置に沈み込むような“ひゅう”という気配がして、耳の奥の圧が抜ける、夜であることを、体が、皮膚で理解する、昼は屋内退避推奨、夜は外出推奨という逆説的ルールの理由が、御堂にも、他の者にも、ようやく腑に落ちる、昼の屋外では目に見えない細粒子が絶えず舞い、皮膚の露出部に針の先を無数に押し付けられるような刺痛が生じ、喉は一口の水でやっと鎮まるがすぐに戻り、目は涙膜を薄く剥がされて乾く、しかし夜は粒子が床へ落ち、代わりに街路の隙間から低い唸り音が立ち上がり、それがどこか遠い海鳴りにも似て一定ではない周期で強弱をつくり、建物の影を膨らませたり縮めたりし、触れ合う金属の鳴き声も混じって、都市が眠らずに歯ぎしりしているかのような騒音が、神経に優しくない。
補給ボックスの座標は、古い映画館の裏手にある搬入口を指していた、御堂と玲奈、そして看護学生の三人が回収班となり、桐生の低い「二十分で戻れ、無線は使えない、目で記録しろ、変化があれば音で知らせろ」という指示を背に受けて闇へ踏み出す、御堂は歩き始めてすぐ、夜の舗道に浮かぶ微光が、蛍光塗料ではなく、粒子が光を吸って放つ極小の反射だと気づき、靴底でそれを踏みしめるたびに短い電気的な痛みが足裏を走るのを、何かのしつけのように受け入れながら進んだ。
搬入口は、厚い鉄扉が片側だけ外れている、かつてプロップや飲料ケースが出入りしたであろうスロープは崩れて窪み、そこに黒い水が溜まって、表面に油膜のような虹をまとっていた、ボックスは、扉の影、監視カメラの死角のさらにその奥、誰かがわざと足跡を雑音のように撒き散らした痕の真ん中に置かれており、封印のテープは新品だ、剥がすと、乾パンと水、そして「死因判別キット」と印字された小型センサーが詰まっている、説明書は一枚紙で、ピクトグラムが二つ三つ、電源ボタンの位置と、遺体の皮膚に当てる位置を示す矢印、それだけ、どの閾値で何を測るのか、採点の指標はどこにあるのか、どのような死亡機転を想定しているのか、一切の説明がない簡素さは、むしろ精度への自信の裏返しのようで、御堂はセンサーの裏蓋に指を滑らせ、四隅のビスのうち一本だけ違うトルクで締められているのに気づき、ナイフの腹でこじると蓋がわずかに浮き、そこに微細なレーザー刻印で量産コードが打たれているのを見つけた、形式、ロット、試験ライン、実装ファームのバージョン……脳のどこかが先に読み、意味を与え、理解した、これは、自分が、知っている規格だ、指先がそれを読んだ瞬間、胸の奥の空洞が砂で半分だけ埋まるような偽の安心が生まれ、同時に足元の床が軋んだ、ゆっくり、ゆっくりと、下から誰かが通路を叩いている、一定のリズム、階段の踊り場で子どもが遊ぶような、しかしその一定さが作為を感じさせるゆえに余計に怖い、玲奈が息を呑み、看護学生が御堂の袖を掴む、御堂は耳を澄まし、叩打の間隔が、さっき自分がHUDに打ち込んだ感情評価の数字の並びに似ていることに気づき、背中に冷たいものが流れ落ちるのを感じながら、ボックスを抱えて踵を返した。
戻ると、拠点の壁に白い紙が追加されていた、桐生が「規約」と大きな字で書き、食料の配分、見張りの交代、探索ペアの固定、HUDの公開範囲など、粗いルールを箇条書きにしている、書きながら桐生は、群れに橋を架けるように声を低く張り、誰もが従うべき線を床に引こうとする、その姿勢はたしかに誰かを安心させるが、同時に、誰かの反発を引き出す、案の定、投資ブロガーの男が「個人ポイントは非公開、これが原則だ」と声を上げ、「報酬体系が個人最適化されてる以上、情報公開はインセンティブを歪める」ともっともらしい語を重ね、元舞台照明の男は「提出ログは表現であって自由であるべきだ、監督の肘をつかまないでくれ」と芸術家めいた反論をし、老女は「紙は燃える、言葉は残る、だから書かない」と意味のあるようなないような言を吐き、議論は小さな円環を何度もなぞるように同じ場所を回った。
その円環にナイフを入れたのは結衣だった、彼女は白紙のような顔で、しかし一語一語を針で縫うように正確に言った、「観察が報酬と直結している以上、私たちは誰かの“危機”を引き起こし、それを記録したくなるかもしれない、よね」、その瞬間、紙の上の文字がひとつ分ずつ沈み、周囲の呼吸が浅くなる、誰もが否定したかったが、誰もがすぐには否定できなかった、ルールが行動を形作るのではなく、報酬が倫理の輪郭を削り取っていく、その予感は、蜂蜜に落ちた蟻の脚の感覚のように、ねばつきと疲弊を同時に伴って、拠点の空気に広がった。
明け方近く、蓮がふらりと起き出して、ガラス越しに外を眺め、「海の匂いがする」と呟いた、その言葉は、眠り損ねた脳の柔らかい部分に冷水を落とすように広がり、「ここは内陸だったはず」と誰かが反射的に言いかけ、しかしその「はず」という語が途端に頼りなくなり、根拠を探そうとした眼差しはすぐに行き場を失った、私たちはこの街を“知っている”と思い込んでいる、駅前に何があり、どの交差点にどの店があり、坂はどちらへ傾き、川はどこへ流れるのか、そうした地図の手触りが確かに頭のどこかにあるのに、それを取り出して机に広げようとすると、紙は端から燃えて灰になる、HUDの地図を開くと、一定の円環構造が示され、外縁に近づくといつも中央へカーブする、円の周回は、迷路に似ているが、迷宮ではない、出口が塞がれているのではなく、記述のレベルで外界が存在しない、設計が外を否定している、だから歩けば歩くほど中心に戻り、中心に近づけば近づくほど、上からの視線が濃くなる、そのことを言葉にしようとして、御堂はただ唇を閉ざした、言葉はこの迷路の壁の素材であり、口にするたびに壁が一枚厚くなる気がしたから。
夜明け前、遠くでサイレンが鳴った、音源はドーム中央塔、サイレンは救難の音ではなく、開場のファンファーレにも似て、観客を席に促す乾いた規律を含んでいる、同時に、広場のスクリーンに白地のテロップがすべり込む、「第一回 提出審査まで残り6時間」、審査、誰が、どこで、何を、どう採点するのか、スクリーンは答えない、御堂はHUDのメニューを舐めるように辿り、設定の裏、さらにその裏へと潜り、隠し階層の気配を指先で探した、触れる、わずかに沈む、パスワード入力画面が滲み出る、脳が手より先に昔の配列を思い出し、指が勝手に鍵盤を叩く、三回、四回、過去の音楽は別の楽譜に変わっており、アクセス拒否、画面の上に赤い線、そして、ほとんど待ち時間なしに、全員のHUDに同時表示で警告が出る、「不正アクセス試行を検出。以後の観察ポイントを減算」、桐生の眉間に筋が刻まれ、投資ブロガーの口角が吊り上がり、玲奈が舌打ちを飲み込み、数人の視線が、御堂の手の甲に突き刺さる、疑いの空気は、最小限の言葉から瞬時に立ち上がり、火をつけられた油のように広がるのが早い、御堂は言い訳を持たなかった、持てば持つほど火はよく燃えるから、ただ結衣が一歩前に出て、誰もを見ずに空間に向けて言った、「彼は“縫い目”を探しているだけ」、その声は、高くも低くもなく、しかし針のように真っ直ぐで、燃え広がる油の端をひと筋、冷やしたように、場の温度を数度だけ下げた。
夜が明ける、人工の空が白み、粒子の刺痛が戻る、皮膚は昼を嫌がり、目はわずかに霞む、誰も眠っていない、誰もが眠り方を忘れており、眠れば背中を刺されるという、根拠のない確信だけが筋肉の奥に巣を作っている、審査まで残り六時間という表記は、砂時計の砂の一粒一粒に音を与えたかのように神経を削り、時間の流れは一定であるはずなのに、知覚のほうが先に削られて短くなっていく錯覚を産む、御堂は、拠点の片隅、割れたポスターの下、映画のキャッチコピーの上に背を預け、HUDを胸に当て、目を閉じる代わりに、脳の中で古い作業机の上に図面を広げた、ゲーム設計の初歩で繰り返し叩き込まれた三分法――観察と救助、協力と裏切り、秩序と自由、プレイヤーの選好を三角形に配置し、どれを選んでも報酬を与える一方、どれかに傾けば別の一辺が痩せるように制約を配置する、その骨組みを、誰かが、ここに実装した、ならば、その誰かは、骨の位置だけでなく、肉の温度や血の粘度や、涙腺が開く閾値までを、もう一度測り直しているに違いない、観察は救助を鈍らせ、救助は観察を汚し、協力は裏切りの予感なしには成立せず、秩序は自由を、自由は秩序を、いつでも少しだけ欠いている、その欠け目から滴るものを、誰がすくい、誰に飲ませ、誰が拍手し、誰がわらうのか、御堂は、心の内で問いを投げ、返ってくるはずのない返答の代わりに、もうひとつの音を聞いた、さっき映画館の床下で鳴っていた叩打と同じリズムが、今度は、拠点の床板のさらに下から、より微かに、しかしより近くに、規則正しく響いている、誰かが縫い目を撫でて、そこをほどこうとしている、あるいは、こちらに縫わせようとしている。
御堂は目を開け、深く息を吸い、肺の内側を細粒子が軽く刺す感覚に耐えながら、立ち上がった、誰もがこちらを見てはいない、誰もが“自分の”観察に忙しい、そこに救いはないし、罠しかない、それでも、針は針穴に通すためにある、縫い目は、見つけるために存在する、そして、見つけた者から、罰せられる、そういう設計は、効率がいい、効率がいいものは、長く続く、長く続くものは、地獄の条件を満たしている。
スクリーンの白が少しだけ明るくなり、通知音が一度だけ鳴った、「観察者諸氏、準備を」、その文言の無感情さは、どんな悪意よりも丁寧で、どんな優しさよりも冷たく、御堂は、胸の中の空洞に、もう一枚、透明な板が差し込まれるのを感じた、それは、心臓を守るための盾か、心臓を標的にするための照準器か、判別する術は、いまのところ、ない。




