第9話:秘め香と宦官、沈む名のゆくえ
夜が明ける少し前。
私は仮面の宦官ソクに導かれ、後宮の裏手にある古井戸のそばに立っていた。
「……本当に、ここで?」
「帝は朝議前の刻に、一人でここを訪れることがある。若き頃より続く癖だ。香に包まれぬ場所で、深く息を吸うために」
私はうなずいた。
後宮のどこにも香が漂うなか、香を避けて思考する空間を持つ——それは、香に敏感な者ならではの習慣だ。
やがて、控えめな足音が近づいた。
帝だった。
夜の闇を背負うように、静かに現れたその姿は、荘厳で、どこか悲しげだった。
「……そなたか。香司ソウカ」
「帝……」
「聞いた。白衡が動いていると。そなたは、危ういものを手に入れたらしいな」
私は袂から香包を取り出した。
「帝香です。……記憶を封じた香。ユナ様が遺したもの」
帝の目が細くなる。
「ユナ……懐かしい名だ。だが、私はその名を記憶していない。まるで、空白になっている。まるで——意図的に、香で消されたように」
「では、これを焚かせてください」
私は香炉に帝香を置き、火を灯した。
香が、静かに立ち昇る。沈香と白檀の奥に、名を喪った血の香り。
帝は、目を閉じた。
「……これは……」
沈黙が落ちた。
そして、そのまま数刻のあいだ——帝は動かなかった。
「——思い出した」
帝が口を開いたとき、その声は震えていた。
「私は……確かに、あの夜。香を嗅いだ。ユナが私に香を焚いた。『すべてを忘れてください』と……」
「……!」
「彼女は涙を流しながら、香に血を落とした。香が煙になると、私の内から何かが剥がれ落ちた。記憶も、感情も、名前も……」
「……それは、帝にとって危険な記憶だったのでしょう」
「危険……いや、むしろ痛みだった。私は彼女を……ユナを、愛していたのだ」
私は息を呑んだ。
帝が愛した女官——ユナ。
そしてその想いが、香により記憶の底に沈められていた。
「だが思い出した今、私には疑問が残る。なぜ、あれほどまでに香を使い、記憶を封じねばならなかったのか。……誰が、それを望んだ?」
帝は私を見る。その目は深い決意を宿していた。
「ソウカ、教えてくれ。私の香を奪ったのは、誰なのか」
私は答えようとした——だが、その瞬間、風に乗って別の香りが届いた。
(これは……“封香”……!)
「帝、下がって!」
私は香炉を払い、香を打ち消そうとする。
だが、すでに遅かった。宙を切るように、香玉が一つ放り込まれた。
ソクが飛び出して受け止め、香玉を掌で砕く。
「誰だ! この場は帝の……!」
「……“真実”は、誰もが欲するものではありませんよ」
現れたのは、白衡だった。
ゆったりとした動作で、後宮の装束を着たまま、仮面を携えて。
「白衡……!」
「帝。どうかお戻りください。この女は、危険な香を手にしております。記憶を操作し、謀反の種を植える者です」
「ならば、お前はどうだ。私の記憶を操作し、名を奪ったのは——!」
「帝の心を守るためでした。あの女官と結ばれた記憶は、国を乱す。あなたが人として愛を持つなど……帝には許されぬのです」
私は震える拳を握った。
「あなたは……帝の“香”まで封じようとするのか」
「香は感情を運びます。だからこそ、支配できる。あなたも、そろそろ理解するでしょう?」
その言葉の意味を、私は理解していた。
白衡は帝だけでなく、後宮すべてを“香”で支配しようとしている。
想いを封じ、感情を抑え、記憶を消す——香による静かな支配。
私は後退しながら、帝香の香包を握りしめた。
(この香は……まだ導ける)
帝が目を細め、私を見つめる。
「ソウカ、私には、真実が必要だ。たとえ、帝である私が傷つくことになっても」
私は、うなずいた。
「では、次にお届けするのは——“香の始まり”です」




