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第7話:封ぜられし女官、香に名を記す

その場所は、香を焚いてはならぬとされていた。

いや——香を焚けぬ場所、というべきかもしれない。


「無香のむこうのま……香を拒む、空白の空間」


香が封じられ、誰の鼻も届かぬようにされた特別な部屋。

後宮の地図には記されておらず、口伝でしかその存在は伝わっていない。


だが、ソクの残した香符を手にしてから、私は感じていた。

あの香が指し示すのは——この場所だと。



私が無香の間にたどり着いたのは、夜の三更。

後宮の最奥。壁の裂け目をくぐり、階段を降りた先に、それはあった。


分厚い石の扉。

そして、前に立った瞬間、香符がわずかに熱を帯びる。


(……ここだ)


私は香符を扉にかざした。

すると、鈍い音とともに、石が軋み、ゆっくりと扉が開いた。


中は、静寂。


音も、香りも、すべてが吸い込まれるように消えていた。


部屋の中央に、一本の香柱こうばしらが立っている。

だが、そこからは何の香も立っていない。


——それが、この部屋の異様さだった。


私はゆっくりと香柱に近づき、足元の台座に目をやる。

そこには、かすれた墨でこう記されていた。


「ユナ——名を奪われし者、ここに香を残す。

我、帝の記憶を封じし証として、この香に名を記す」


「……やはり、彼女が封印に関わっていたのね」


私は香柱に触れ、目を閉じた。

そして、静かに息を吸う。

香が封じられた空間でも、わずかな残り香——“香痕こうこん”は残る。


(……白梅、薄荷、そして、沈香。これは“記憶封”の式)


そしてもう一つ、かすかに——血の香り。


「……これ、香に自らの血を混ぜている」


香符ではなく、“命の香”として刻まれた式。

自分の名も、記憶も、香と共に沈めたのだ。


そのとき——背後から音がした。


「よく、たどり着いたわね」


私は振り返った。


そこにいたのは、地味な衣をまとった中年の女官。

だが、目が合った瞬間、私の鼻が覚えていた。


(……この香気、私の幼い記憶と同じ……)


「ユナ……!」


「その名を呼ばれるのは、何年ぶりかしら」


ユナ——名を奪われた女官。

かつて、父・清蓮の弟子であり、帝の記憶を封じたもう一人の香司。


「なぜ……名を隠してまで生きていたの?」


「生きていたかったわけじゃない。ただ、“香”を残したかったの。帝がすべてを忘れてしまっても、香だけは覚えている。香は、記憶の形だから」


ユナは香柱に近づき、掌を添える。


「ここは、記憶が香に戻る場所。香封の術は、命と引き換えだった。私は香を封じ、名を失った。でも、あなたが来ると信じていた」


「……私を、知っていたの?」


「あなたは、清蓮様の娘。幼いあなたを、私は何度も抱いた。香を嗅ぎ分ける、小さな鼻——あの才能に、父は笑っていたわ」


私は言葉が出なかった。


思い出す。幼い頃、母以外の温もりに抱かれた感触。

白梅と薄荷の匂い。——あれは、彼女の香だった。


「お願い。あなたに、託したい香がある」


ユナはそう言って、香柱の奥から一つの香包を取り出した。


「これは、帝が最後に嗅いだ香——“帝香ていこう”。記憶の扉を開く鍵よ」


私は震える手でそれを受け取った。


「なぜ、私に?」


「香司の血を継ぎ、香の記憶を嗅げる者は、今やあなたしかいない。帝の記憶が戻れば、誰が封じたのか——誰が帝を操ろうとしていたのか、すべてが明らかになる」


ユナの瞳は静かに、しかし確かな覚悟を宿していた。


「私はここで、“香に名を記した”。それで、もういいの」


彼女の言葉に、私は何も言えなかった。


ただ、香包を胸に抱きしめた。


香は、記憶を語る。

そして——封ぜられた名は、再び呼ばれるべきだった。

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