第6話:沈香の間、名を奪われし者
香司の家には“記憶を香に封じる”技があった。
だが、その技の記録はすべて失われた——はずだった。
「沈香の間には、香司家の古文がある。処分されたと聞いたが、火を免れた記録が残っているかもしれぬ」
帝の密命を受け、私は禁域に踏み入れた。
「沈香の間」は、もともと調香師の研究のために設けられた蔵書庫。
父が処刑されたあの日、香司の記録は多く焼かれたというが、一部は禁書として封印されたと、密かに聞かされていた。
(ここに……あの香封の記録が……)
重い扉を押し開けると、埃と沈香の匂いが混ざる、どこか懐かしい空気が肌を撫でた。
松明の火を掲げ、書架をひとつずつ調べていく。
記録は手書きの巻物、木簡、香包に包まれた断簡……どれも虫食いと時の腐食に耐えきったものばかり。
その中で、私は一冊の冊子に目を留めた。
「これは……」
表紙には、うっすらと「香印の式」と読める筆跡。
中を開くと、見覚えのある式図。皮膚に香を焚き染め、記憶を封ずる禁術の一つ——“香封”。
だが、そこに添えられた注釈に、私は息を呑んだ。
「『本術は、"清蓮"の弟子・ユナにより修正され、帝用の印として調香された』……?」
ユナ——聞き覚えのある名だった。
「ユナ……確か、女官名簿にその名はなかったはず」
私は、沈香の間の奥に保管されていた過去の後宮名簿を手繰る。
調香の補助を行う“香女官”の項を丹念に追うと、そこに違和感があった。
「名簿から、一名分が……抹消されている」
無理に剥がされた跡。
墨で塗りつぶされた部分の紙が浮いている。
私はその紙を指先でなぞり、そっと剥がすと、かすかに残った筆跡が現れた。
「——ユナ。やはり、存在していた……!」
名を消された女官。
父・清蓮の弟子であり、記憶封印の術式に関与していた者。
(ならば、父とともに“帝の記憶”を封じたのも、彼女……?)
私は急いで香庫へ戻り、香の記録の中から“ユナ”の調香印を探した。
香司が調香した香には、必ず“香印”と呼ばれる独自の混香図が残る。
そして、見つけた。
「この印……間違いない、清蓮の式に似ているけれど、香材の配置がわずかに違う。これは別の手の者が……!」
そこへ、控えの間から声がした。
「やはり、あなたも気づいたか」
現れたのは、仮面の宦官・ソクだった。
今日の彼は仮面を外していた。素顔は、まだ若いが、どこか過去を知り尽くした目をしていた。
「ユナは、今も後宮にいる」
「なんですって……!?」
「ただし、違う名でな。彼女は“記憶と香を共に封じられた女”。かつて帝を封じた罪により、名を奪われ、香を禁じられた。だが、生きている。まだ、香の中に」
「なぜ貴方がそれを……」
「香を追う者だからさ。そして……かつて、彼女に助けられたことがある」
ソクはそう言って、懐から小さな香符を取り出した。
「これは彼女が最後に残した“記憶の鍵”だ。お前に渡す」
受け取った香符から、かすかな白梅と薄荷の香りが立ちのぼった。
それは、私の記憶にあった香。
(この香……私が幼い頃、誰かに守られたときの……)
——もしかして。
私は、封じられた名の女官と、自分の過去の記憶がつながる予感に震えた。
「香が導くままに進め。名を奪われし者が、全ての始まりを知っている」
ソクはそれだけ言い残し、また闇へと消えた。
香司の血と、禁じられた術と、奪われた名。
香が、すべてを繋ごうとしていた。