第5話:香妃の夜歩き、影を追う鼻
夜の帳が下りる頃、私はひそかに帳を抜け出した。
宦官たちの巡回を避け、歩幅を殺して進む。
後宮では、日が落ちてから妃が勝手に動くことは禁じられていた。
だが私は——香に導かれていた。
香は嘘をつかない。
香は隠しきれない。
香庫で仮面の宦官ソクが残した“燼霧”の香袋。
あれと同じ気配を、私は昨日、女官たちの衣に微かに感じた。
(この後宮のどこかで、禁香が流通している)
誰かが香を使って帝を狙っている。
それを知るには、夜の宮を歩くしかなかった。
まず私が訪れたのは、「雲雀房」。
下級の女官たちが詰める宿舎であり、香妃に仕える者たちもこの棟に出入りする。
静まり返った通路に、微かな香の尾を感じた。
(この香は……柚香と梅花……。だが、妙だ)
本来なら清涼なはずの香に、どこか引っかかる苦味。
香を“重ねている”気配。
私は鼻を研ぎ澄ませた。
香の層をめくるように、気配を探る。
(……あった)
裏香。
一見普通の香に見せかけ、意図的に別の香を重ねて偽装する手法。
しかもこれは、素人の技ではない。
「やはり、この香——“隠香”の技術だわ」
香司の家に伝わる裏技。
調香師の中でも限られた者しか使えない。
そのとき、不意に背後から声がした。
「それを嗅ぎ分けるとは、やはり只者ではないな」
反射的に振り返ると、暗がりから一人の少年が現れた。
歳の頃は十五、六。
だがその目には、年齢に不相応な洞察と警戒が宿っていた。
「貴方は……?」
「香を追う者。“宦官”を名乗っているが、表の務めではない」
「では……密使?」
「察しがいいな。だが、私の任務は“香妃”である貴女の監視でもある」
少年は袖から取り出した香包を私に投げてよこした。
中には淡い紅の粉香。
私はそれを嗅いだ瞬間、はっと目を見開いた。
(この香……“始まりの香”に近い。香司の家に伝わる、最も古い香……!)
「これを、どこで……?」
「“もう一人の香司の血”から奪った」
その言葉に、私は全身の血が騒いだ。
「その者は、誰? どこに?」
「それを調べるのが、私の役目でもある。だが……この香、あなたの反応を見て、確信したよ」
少年の目が細くなる。
「貴女もまた、“帝を封じた香”に関わっていると」
「……!」
私は言葉を詰まらせる。
「安心しろ。私は敵ではない。だが、味方にもならない。香を追う、それが任務だ」
そう言い残して、少年は影のように消えた。
私の手の中には、紅い香。
その芯に、かすかに香司の血の記憶が混ざっている。
そしてその夜、私の部屋の香炉に一振りの細い剣が置かれていた。
「これは……香剣?」
柄に香司の家紋。
父が最後に使っていた調香用の香剣と同じ細工。
(父の剣……? では、やはり後宮の中に……)
——もう一人の“香司の血”。
私は剣を手に取り、心を静めた。
香が導く先に、真実がある。
この後宮に、香の影が忍び寄っていた。