第4話:帝と香、隠された印
再び、琅華殿。
朝靄が薄く張りつめる中、私はひとり香炉を前に座していた。
「“燼霧”……」
香庫で手にした禁香の名を、静かに口にする。
父が調香したとされるその香は、帝の記憶を封じ、そして一族を滅ぼすきっかけとなった。
(父は、なぜこの香を……?)
その意図を知るには、帝自身の記憶に触れねばならない。
私は香を調え、静かに目を閉じた。
記憶を呼び起こすための調香、《夢回の式》。
やがて、帝が入ってきた。
「香妃……また香を?」
「陛下の記憶に、何か封じられている可能性がございます。香で、それを解いてみせます」
帝は静かに頷いた。
「試すがよい。だが、記憶は時に——人を壊す」
「それでも、帝にとって大切なものがあるはずです」
私は香を焚いた。
ふわりと立ちのぼるのは、白檀と山奈を基調にした鎮静の香。
その芯に、ごく微量の“燼霧”を仕込んである。
帝が目を閉じ、静かに呼吸を整える。
香が意識の奥へと沈んでいく。
——そのときだった。
「……痛む、背が……熱い……!」
帝が呻くように言い、膝をついた。
私は駆け寄る。
「陛下!」
着衣を払い、背を診た瞬間、息を呑んだ。
そこには、薄く刻まれた模様があった。
皮膚に溶けるように浮かぶ、わずかに赤く染まった文様。
香符の印——記憶を封じるため、香と共に刻む古の術式。
(これは……父が使っていた式と、同じ……)
香司の家に代々伝わる、禁じられた技。
香で記憶を揺らし、その鍵を体内に封じる“香封”。
この符は、明らかに意図的に施されたもの。
「陛下……これは、いつ……?」
帝は苦しげに眉を寄せながら言った。
「覚えていない。……気づいた時には、背に灼けるような痛みがあった」
「それは、おそらく——香を使った者の仕業です。記憶を封じるために」
「では……父帝の死に関わる記憶も……?」
私は頷いた。
「記憶が封じられていたとすれば、陛下は“何者かにとって都合の悪い真実”を知っていたということです」
帝はしばらく黙していた。
やがて、低く静かに呟く。
「この背の印を、焼き消す術はあるか」
「危険です。強引に剥がせば、記憶だけでなく、精神をも壊す可能性が……」
「それでも、知りたい。私の中に眠る真実を。——香妃、頼めるか」
その目は、初めて本物の決意に満ちていた。
私はゆっくりと頭を下げる。
「お命じください。香の真実、必ず嗅ぎ分けてみせます」
その瞬間、部屋に微かな風が吹いた。
——香が揺れる。
どこからともなく、かすかな香気が混じっていた。
(また……この気配)
私は振り返ったが、誰の姿もない。
だが確かに、香の道に潜む者がいる。
それは、香を“知っている者”の手口。
気配を香で偽り、すれ違いながら観察している。
仮面の宦官・ソク。
彼が言った、「もう一人の香司の血」。
(この宮には……まだ香を操る影がいる)
私は目を伏せる帝の背を見つめながら、静かに心に誓った。
香を読み、香を辿り、必ず真実にたどり着くと。