第3話:黒衣の宦官、香の足跡
夜明け前の香庫は、冷え切った石造りの回廊にしんと静まり返っていた。
後宮に設けられた香庫は、帝や妃たちに供される香材すべてが納められる場所。
禁制の香も、調香師すら近づけぬ特別区画に保管されている。
私は静かに扉を押し、内部へと足を踏み入れた。
中は仄暗く、乾いた香木の香りが空気を支配している。
沈香、白檀、甲香……香司の一族ならば名を聞くだけで調香ができる、希少な香ばかり。
(……気配がある)
香の流れに乗って、どこか微かに揺れる空気。
香を知る者にしか感じ取れぬ、“異質”の気配。
そのとき、棚の陰からひとつの影が現れた。
「貴女が……“香妃”殿か」
男の声。
だが、それは宦官独特の高い声でも、妃を見下すような響きでもなかった。
むしろ澄んだ調子で、どこか冷たい水のようだった。
振り返ると、黒衣に身を包んだ宦官が立っていた。
顔には半面の銀の仮面。片目だけが見える。
「貴方は……誰?」
「名は要らぬ。呼ぶなら“ソク”とでも」
「……偽名ね」
「真名など、とうの昔に剥がされた。宦官とは、そういう生き物だ」
その口ぶりには、憐れみも怒りもなかった。
ただ淡々とした空虚さがあった。
私は手にした香包を握りしめた。
香妃としての務めを忘れてはならない。
彼が“何者か”を見極めねばならない。
「なぜ、香庫に?」
「調香に興味があってな。……いや、違うな。貴女に興味がある、が正しい」
仮面の男・ソクは棚の陰から一包みの香袋を取り出して見せた。
それは——禁香「燼霧」。
一吸いで思考を乱し、数分後には記憶を消す、調香禁忌とされた香。
「それを……どこで」
「ここさ。ここには多すぎるほど、真実が眠っている。貴女の一族の香も、まだ息をしている」
言いながら、彼は私に香袋を放った。
受け止めると、そこから微かに立ちのぼる香気が漂う。
香司の血が騒いだ。
(これ……父が最後に残した調香と、同じ構成……)
「どうして……あなたは、これを……?」
「私は“香を封じる者”。香を知り、香を殺す。貴女とは、正反対の存在だ」
ソクは一歩近づいた。
その仮面の奥の瞳は、凍てつくように静かだった。
「貴女の父は、香を用いて“帝の記憶”を封じた。
ゆえに殺された。
貴女がそれを解き放てば、再び同じ運命が貴女を焼く」
「それでも……知りたい。香に封じられたものの正体を」
私の声は震えていなかった。
恐怖より、香の真実に触れる予感が、私を突き動かしていた。
「……ならば、忠告だけはしておく」
「何?」
「後宮には、香司の血を引く者が、もう一人いる」
「……!」
「それが誰か、貴女はまだ知らない。だが、その者もまた、帝を殺すために香を操っている」
ソクは言い終えると、香の煙に紛れるように姿を消した。
まるで、最初から存在しなかったかのように。
私はしばらくその場から動けなかった。
香の気配だけが、余韻のように残っていた。
香庫は沈黙し、まるで何も起きなかったかのように香を抱いていた。
だが私は確かに聞いた。
もう一人、香を操る者がいる。
帝の命を狙いながら——私と同じ香司の血を継ぐ者が。
(香に導かれるなら……私は、その者をも嗅ぎ分けてみせる)
私は香包を握りしめ、香庫を後にした。
香の道の奥に、過去と現在を繋ぐ深い闇が広がっていた。