表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/10

第3話:黒衣の宦官、香の足跡

夜明け前の香庫は、冷え切った石造りの回廊にしんと静まり返っていた。


後宮に設けられた香庫は、帝や妃たちに供される香材すべてが納められる場所。

禁制の香も、調香師すら近づけぬ特別区画に保管されている。


私は静かに扉を押し、内部へと足を踏み入れた。


中は仄暗く、乾いた香木の香りが空気を支配している。

沈香じんこう白檀びゃくだん甲香こうこう……香司の一族ならば名を聞くだけで調香ができる、希少な香ばかり。


(……気配がある)


香の流れに乗って、どこか微かに揺れる空気。

香を知る者にしか感じ取れぬ、“異質”の気配。


そのとき、棚の陰からひとつの影が現れた。


「貴女が……“香妃”殿か」


男の声。

だが、それは宦官独特の高い声でも、妃を見下すような響きでもなかった。

むしろ澄んだ調子で、どこか冷たい水のようだった。


振り返ると、黒衣に身を包んだ宦官が立っていた。

顔には半面の銀の仮面。片目だけが見える。


「貴方は……誰?」


「名は要らぬ。呼ぶなら“ソク”とでも」


「……偽名ね」


「真名など、とうの昔に剥がされた。宦官とは、そういう生き物だ」


その口ぶりには、憐れみも怒りもなかった。

ただ淡々とした空虚さがあった。


私は手にした香包を握りしめた。

香妃としての務めを忘れてはならない。

彼が“何者か”を見極めねばならない。


「なぜ、香庫に?」


「調香に興味があってな。……いや、違うな。貴女に興味がある、が正しい」


仮面の男・ソクは棚の陰から一包みの香袋を取り出して見せた。

それは——禁香「燼霧じんむ」。


一吸いで思考を乱し、数分後には記憶を消す、調香禁忌とされた香。


「それを……どこで」


「ここさ。ここには多すぎるほど、真実が眠っている。貴女の一族の香も、まだ息をしている」


言いながら、彼は私に香袋を放った。

受け止めると、そこから微かに立ちのぼる香気が漂う。

香司の血が騒いだ。


(これ……父が最後に残した調香と、同じ構成……)


「どうして……あなたは、これを……?」


「私は“香を封じる者”。香を知り、香を殺す。貴女とは、正反対の存在だ」


ソクは一歩近づいた。

その仮面の奥の瞳は、凍てつくように静かだった。


「貴女の父は、香を用いて“帝の記憶”を封じた。

ゆえに殺された。

貴女がそれを解き放てば、再び同じ運命が貴女を焼く」


「それでも……知りたい。香に封じられたものの正体を」


私の声は震えていなかった。

恐怖より、香の真実に触れる予感が、私を突き動かしていた。


「……ならば、忠告だけはしておく」

「何?」


「後宮には、香司の血を引く者が、もう一人いる」


「……!」


「それが誰か、貴女はまだ知らない。だが、その者もまた、帝を殺すために香を操っている」


ソクは言い終えると、香の煙に紛れるように姿を消した。

まるで、最初から存在しなかったかのように。


私はしばらくその場から動けなかった。

香の気配だけが、余韻のように残っていた。


香庫は沈黙し、まるで何も起きなかったかのように香を抱いていた。

だが私は確かに聞いた。


もう一人、香を操る者がいる。

帝の命を狙いながら——私と同じ香司の血を継ぐ者が。


(香に導かれるなら……私は、その者をも嗅ぎ分けてみせる)


私は香包を握りしめ、香庫を後にした。

香の道の奥に、過去と現在を繋ぐ深い闇が広がっていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ