第2話:香妃の記憶、帝の沈黙
琅華殿の夜は深く、香の煙だけが静かに天井を舞っていた。
私は香炉の火を見つめながら、過去に沈む。
——あの夜、紅蓮のように燃えさかる屋敷。
炎に包まれ、倒れていく父。
香司の名を持つ者を、一人残らず消せという勅命。
その時、私はまだ十歳にも満たなかった。
だが香の道だけは、身体に染みついていた。
逃げ、隠れ、復讐を誓い、私は生き延びた。
一族がなぜ殺されたのか。誰の命令だったのか。
それを知るために、私は香妃となった。
「香妃」
帝の声に、我に返る。
香煙の向こう、帝の姿がぼんやりと揺らいでいた。
「お前の香は……不思議だ。香りに触れると、忘れていたはずのことが脳裏に蘇る」
「記憶の香と申します。古くより、心の奥に残るものを揺り動かす力があると」
私は静かに答えた。
帝は目を細めた。
「“沈華”。あの夜、父帝が崩御された夜、確かにこの香が焚かれていた……」
私は息を呑んだ。
帝は記憶している——香と死の気配を。
だが、あの香は誰が焚いたのか。
なぜ先帝の死に、香司の一族が巻き込まれたのか。
「それは……夢ではございませんか」
「そうかもしれぬ。だが、私は覚えている。“香が、父帝を殺した”と、そう思ったのだ」
帝の言葉に、背筋が凍る。
その言葉は、私の一族を断罪した言葉と同じだった。
香が、帝を殺した。
だから、香司を滅ぼせと。
だが——本当にそうなのか?
あの夜、香を仕込んだのは誰だ?
私の父ではない。ならば……
「陛下。近頃、香庫から香材が密かに抜き取られているという噂がございます」
「香材を……?」
私は頷いた。
「誰かが禁香を調合しようとしているのかもしれません」
「それを操る者が、宮中にいるというのか……」
その時だった。
ふ、と微かな風が吹いたような気がした。
一瞬、琅華殿の帳の隙間が揺れる。
視線を向けたが、誰の姿もない。
だが、確かに——誰かが、見ていた。
(誰かがこの会話を……)
香妃である私の嗅覚が警鐘を鳴らす。
香の気配。だが、極めて薄く、巧妙に仕込まれた偽香。
誰かが、香で気配を消し、近づいていた。
帝も気づいたのか、声を潜める。
「香妃。これより、汝には密命を与える」
「……密命?」
「香をもって、この宮の闇を炙り出せ。真に“香を操る者”が誰か——探り出すのだ」
香の煙の中、帝の黒い瞳が揺れていた。
それは、信頼ではなかった。
疑念と恐れ、そして——微かな希望。
私は静かに頭を垂れた。
「御意」
そして私は決めた。
香を手に、この後宮を歩き出す。
私の道は、まだ始まったばかり。