第1話:毒香の任
帝を殺せ。
それが私に与えられた最初で最後の任だった。
——香妃。それが今の私の名。
本名を捨て、顔を隠し、香に毒を忍ばせる技を携えて、私は後宮に潜り込んだ。
かつて、「天の香司」と呼ばれた家に生まれた私の一族は、代々、香を操る特異な血を継いでいた。調香で心を鎮め、香煙で記憶を封じ、香粉に命を奪う毒を忍ばせる。
だが今では、すでにその名も廃れ、一族の者はほとんどが粛清された。
私は生き残りだ。
命令を下したのは、かつて父の仇である男——いや、帝の座を狙う者。
「お前にしかできぬ。香を用いて、帝を殺せ」
私は頷き、そして沈黙を選んだ。
――
今、帝の寝宮である「琅華殿」の奥に、私は膝をついていた。
「香妃、《こうひ》、参りました」
宮人たちがひれ伏す中、ただ一人、帝が寝台の奥に座している。
薄衣をまとい、目を閉じたその姿は、神仏の像のようにも見えた。
「起きろ」
低く、乾いた声。だが、どこか疲弊を含んでいた。
私は立ち上がり、小さな香炉を差し出した。
「今宵は、“沈華”をご用意しました」
香炉の中に火を入れ、慎重に香を焚く。
立ちのぼる白煙は、最初に甘い蜜のような香りを漂わせ、次第に苦みを含む。
三度吸えば、内臓が焼ける。私が調香した毒香だ。
けれど、その香を前にして——
「……久しい香だ」
帝が目を開けた。
深い漆黒の瞳が、私を射抜くように見据える。
「香妃。この香……“沈華”と言ったな」
「は。お気に召しませんか?」
私は動揺を悟られぬよう、静かに問い返す。
「……否。“沈華”は、先帝が好んだ香だ。確か……」
帝は言葉を濁した。
その目の奥で、かすかに何かが揺らいだのを私は見逃さなかった。
記憶が、動いた。
“沈華”は、先帝が崩御する直前に焚かれていた香。その死と、何か関係があるのではと密かに囁かれていた。
だがその調香法は、私の一族にしか伝わっていない。
帝がこの香を知っているはずはない。いや、知っていてはならない——
「どこで、これを」
帝の声が震えていた。
「亡き香司の家に残された古文書にて、偶然知りました」
私は平然と嘘を返す。
「……懐かしい香だ」
帝が呟いた。
懐かしい?
記憶を……失っていたはずの?
それは、私にとって想定外だった。
記憶を呼び戻す毒。
香が、帝の中に閉ざされた何かを解きほぐしていく。
このまま毒香を続ければ、帝の命は奪える。
だが同時に、忘れられていた真実も暴かれていく。
——この帝は、殺してはならない。
私の中の「香司の血」が告げた。
そう、香とはただの毒ではない。
香とは、過去を開く鍵でもあるのだ。
ならば私の任はただひとつ。
香で、帝の記憶を取り戻させる。
そしてその奥にある——私の一族が滅んだ真実を暴くこと。
「香妃よ。今宵の香——もう少し、焚いてくれ」
帝の声は静かだった。
はい、と頷きながら、私は香炉に手を添えた。
香の煙が再び舞い上がる。
毒の香に包まれて、記憶と真実が、今ゆっくりと目を覚まし始めていた。