第8話:青き炎と獣の誇り
リュカは手を伸ばし、肉を手に取る。
その刹那、料理人としての闘志が彼女の体内に静かに、しかし確実に燃え上がっていった。
まず彼女は、劣った胸肉を調理台に置き、じっくりと観察した。獣耳が前に傾き、鼻孔がわずかに広がる。人間には感じ取れない微細な香りの違いを、彼女の嗅覚は正確に捉えていく。
──確かに質は落ちているが、完全に腐敗しているわけではない。
指先で肉の表面を撫でる。繊維の粗さ、水分の抜け具合、脂肪の分布。
すべてが彼女の触覚を通じて脳内に地図のように描かれていく。
その時、視界の端で青白い光が瞬いた。
リュカの獣耳がピクリと動き、反射的にその方向を向いた。隣の調理台で、アレクシスが仔羊肉の表面で何かが爆ぜる瞬間だった。
次の瞬間、リュカの翡翠色の瞳が大きく見開かれた。
青白い炎が、アレクシスの手元で踊っていた。
それは通常の火とはまったく異なる、幻想的な輝きを放っていた。まるで月光を凝縮したような、透明感のある青い炎。それがアレクシスの手の動きに合わせて、生き物のように肉の表面を舐めていく。
リュカの全身に衝撃が走る。獣人の本能が、その炎の中に潜む「何か」を感じ取っていた。それは危険でも、恐怖でもない。むしろ、今まで感じたことのない不思議な感覚だった。
──魔素……?
アレクシスは完璧な手つきで炎を制御していた。強すぎず、弱すぎず。青白い炎は肉の表面だけを一瞬で焼き、すぐに消えていく。その一瞬の間に、肉の表面に独特の照りと、なんとも言えない深みのある香りが生まれていた。
リュカは息をすることも忘れて、その光景をただ見つめていた。
料理とは、食材を切り、焼き、煮て、味付けをするもの。
そう信じていた彼女の世界観が、根底から揺らいでいた。アレクシスが見せているのは、料理を超えた何か。
──まるで錬金術のような、神秘的な技術だった。
青い炎の中で、肉が変化していく。ただ焼けるのではない。まるで肉の内部構造そのものが組み替えられ、新しい次元の味わいが生まれているかのような、そんな錯覚さえ覚えた。
アレクシスの横顔は、真剣そのものだった。額には汗が浮かび、銀青色の瞳は炎だけを見つめている。その集中力は、リュカが料理をする時のそれと同じでありながら、どこか違っていた。
彼は技術だけでなく、自らの経験、知識、そして料理への敬意。全て使って料理をしている。
その認識が、リュカの心に深く刻み込まれた。
やがて青い炎が消え、アレクシスが次の工程に移った時、リュカはようやく我に返った。自分も調理を続けなければならない。しかし、今見た光景は、彼女の脳裏に焼き付いて離れなかった。
──あんな料理の方法があるなんて……
リュカは深く息を吸い込み、自分の肉に向き直った。
自分にあるのは、獣人としての感覚と、養父から受け継いだ技術だけ。
でも、それでいい。
むしろ、アレクシスの料理を見たことで、彼女の中で何かが吹っ切れた。彼には彼の料理がある。そして自分には、自分の料理がある。
リュカは包丁を手に取った。試験会場の備品だが、重さと刃の角度から、すぐに特性を把握する。そして、まるで古い友人と再会したかのように、包丁を軽く握り直した。
次の瞬間、彼女の手が動き始めた。
最初の一刀は、肉の最も劣化した部分を正確に切り離した。無駄のない動きで、使える部分と使えない部分を瞬時に選別していく。包丁は彼女の手の延長となり、まるで肉と対話するかのように、繊維に沿って滑っていく。
「なんだ、あれは……」
隣の調理台で作業していた受験者が、思わず手を止めた。
リュカの包丁さばきは、単なる技術を超えていた。刃が肉に触れる瞬間、微かな音が響く。それは繊維を切断する音ではなく、むしろ繊維の間を泳ぐような、優しい音色だった。
彼女の獣耳はピンと立ち、包丁が奏でる音に集中している。人間には聞こえない、肉の内部構造が発する微細な音。それを頼りに、最も柔らかく、最も旨味の詰まった部分を見極めていく。
切り分けられた肉片は、驚くほど均一だった。厚さ、大きさ、繊維の方向──すべてが計算し尽くされている。しかも、それぞれの肉片は、微妙に異なる切り方がされていた。硬い部分は薄く、柔らかい部分はやや厚く。火の通りが均一になるよう、瞬時に判断されていたのだ。
「信じられない……あの速さで、あんな精密な……」
妨害した男性受験者の顔が青ざめていく。彼は最も質の悪い肉を選んだつもりだった。しかしリュカは、その中から使える部分を完璧に選別し、さらに最適な切り方まで施している。
リュカは切り終えた肉を一旦脇に置き、香辛料の選定に移った。
初夏という季節を考慮し、爽やかさを演出できる香辛料を選んでいく。しかし、ここでも彼女の選択は独特だった。
まず手に取ったのは、ローズマリーとタイム。定番の組み合わせだが、彼女はそれぞれの香りを確認しながら、微妙に量を調整していく。次に、誰も手を出さなかった山椒を少量加えた。
「山椒? 牛肉に?」
誰かが疑問の声を上げた。
しかしリュカの表情に迷いはない。彼女の鼻は、山椒の持つ柑橘系の香りが、肉の臭みを消し、同時に初夏の爽やかさを演出することを知っていた。
さらに彼女は、ほんの少しの蜂蜜を用意した。甘味を加えるためではない。肉の表面をカラメリゼし、香ばしさと照りを生み出すためだ。
調味料の準備が整うと、リュカは深呼吸をした。
──魔素を含む香辛料の使い方はわからない。
でも、私には私の武器がある。
フライパンを火にかける。油を注ぎ、温度を確認する。彼女は手をかざすことなく、立ち上る熱気の密度と、油から発せられる微かな音で温度を判断した。
理想的な温度に達した瞬間、彼女は肉を投入した。
「ジュッ」
心地よい音が会場に響く。しかし、次の瞬間、誰もが息を呑んだ。
リュカの動きが、まるで変わったのだ。
彼女の体は音楽に合わせるかのように、優雅に動き始めた。右手でフライパンを操り、左手で肉を返す。その動きは無駄がなく、流れるように美しい。まるで肉と踊っているかのようだった。
フライパンを傾け、油を肉の上に回しかける。その角度、タイミング、すべてが完璧だった。肉の表面が美しい焼き色を帯び始める。
「あれは……『アロゼ』の技法か。いやしかし……」
審査員の一人が呟いた。
アロゼ──料理の技法で、焼いている食材に油や肉汁を繰り返しかけることで、均一に火を通し、同時に風味を閉じ込める高度な技術。それを、この若い獣人の少女が完璧に使いこなしている。
しかし、彼女のアロゼは教科書通りではなかった。油をかけるリズム、量、場所──すべてが肉の状態に合わせて微調整されている。まるで肉が「ここにかけて」と語りかけ、彼女がそれに応えているかのようだった。
リュカの獣耳が細かく動く。焼ける音の変化を聞き分け、内部の火の通り具合を判断している。人間なら温度計を使うところを、彼女は音だけで完璧に把握していた。
肉を返す瞬間、彼女は蜂蜜を少量、肉の表面に塗った。再び焼き面を下にすると、蜂蜜が焦げる甘い香りが立ち上る。それは単なる甘い香りではなく、肉の旨味と混ざり合い、複雑で奥深い香りへと変化していった。
山椒を振りかける時、リュカの手は特に慎重になった。
アレクシスの青い炎を見た後では、自分の料理がひどく地味に思える。しかし、彼女は自分の道を信じた。獣人の感覚を最大限に活かし、素材の声を聞き、それに応える。それが彼女の料理だ。
山椒の粒子が肉の表面で弾ける音を、彼女の耳は捉えていた。精油成分が熱で気化し、独特の爽やかな香りを放つ。それは青い炎のような派手さはないが、確実に肉の味を一段階引き上げていた。
リュカは肉をフライパンから取り出し、休ませる。その間に、彼女は付け合わせの準備に取り掛かった。
初夏の野菜──アスパラガス、ミニトマト。それらを手早く、しかし丁寧に調理していく。アスパラガスは根元の硬い部分だけ皮を剥き、穂先は残す。ミニトマトは、十字に浅く切り込みを入れる。
すべての野菜を、肉を焼いた同じフライパンで調理する。肉の旨味が野菜に移り、野菜の甘みが肉の風味を引き立てる。相互作用を計算し尽くした調理法だった。
最後に、リュカはソースを作り始めた。
フライパンに残った肉汁に、白ワインを加えて鍋底に付着した焦げや旨味を煮溶かす。アルコールを飛ばしながら、こびりついた旨味を溶かし出す。そこに、ほんの少しのバターと、刻んだエストラゴンを加えた。
エストラゴン──初夏のハーブの王様とも呼ばれる香草。その爽やかな香りが、肉の重さを和らげ、季節感を演出する。
ソースが煮詰まっていく音を、リュカは注意深く聞いていた。泡の大きさが変わり、音が高くなる。それが完成の合図だった。
「時間です!」
審査員の声が響くと同時に、リュカは盛り付けを完成させた。
皿の中央に、美しく焼き上げられた肉。その周りを彩る初夏の野菜。そして、エメラルドグリーンの美しいソースが、まるで初夏の風のように皿の上を流れている。
見た目は洗練され、香りは食欲をそそり、そして何より──
「これが、あの粗悪な肉から作られたものだと……?」
会場が静まり返った。
妨害した男性は、顔面を蒼白にして立ち尽くしている。他の受験者たちも、信じられないという表情でリュカの料理を見つめていた。
リュカは静かに、しかし誇りを持って宣言した。
「初夏の訪れを告げる、仔牛のロースト。山椒の香りを添えて」
彼女の声は小さかったが、会場全体に響き渡った。
リュカは調理台の片付けをしながら、静かに息をついた。彼女の獣耳は疲労でわずかに垂れていたが、その表情には確かな充実感があった。
片付けをしながら、彼女の視線は何度もアレクシスの方へ向いた。
あの青い炎は、一体何だったのだろう。なぜ料理に魔素を使うのか。そして、なぜあんなにも美しく、神秘的だったのか。
彼女の心の奥底で、小さな憧れが芽生えていた。いつか、自分もあんな風に……いや、自分らしい方法で、もっと素晴らしい料理を作れるようになりたい。
ふと視線を感じて顔を上げると、アレクシスと目が合った。彼の銀青色の瞳には、深い感動と称賛が宿っていた。そして、何か大切なことに気づいたような、不思議な光も。
二人の視線が交差したのは、ほんの一瞬。しかし、その瞬間に通じ合った想いは、言葉以上に雄弁だった。
この場で作られた二人の料理は、確かに言葉よりも雄弁だった。




