第7話:空虚な料理人
調理開始の合図と共に、会場は一気に緊張感に包まれた。受験者たちが慌ただしく動き始める中、アレクシスは静かに仔羊の肩ロースを手に取った。
彼の手つきは完璧だった。筋膜を丁寧に取り除き、余分な脂を削ぎ落とす。包丁の角度、力の入れ方、すべてが教科書通り。これまで学んできた理論が、彼の動きの一つ一つに現れていた。
だが──
アレクシスは手を止めた。
技術的には何も問題ない。むしろ完璧すぎるほどだ。
しかし、何かが足りない。この空虚な感覚は何だろう。
視線の先で、リュカが必死に劣った肉と向き合っている姿が見えた。
彼女の獣耳は集中で前に向き、その小さき手は震えることなく包丁を握っている。妨害を受けてもなお、諦めずに料理と向き合うその姿に、アレクシスの胸の奥で何かが疼いた。
──僕もかつては……
記憶が、静かに蘇り始めた。
◆◆◆◆◆
それは十二年前、アレクシスがまだ七歳の頃だった。
王宮の回廊を一人で歩く小さな王子。金色の髪は今と同じように整えられ、銀青色の瞳は──何も映していなかった。
「アレクシス様、どちらへ?」
侍従が声をかけても、少年は振り返らない。相手の顔を見ても、誰なのか分からないから。いや、正確には、誰であっても同じにしか見えないから。
「散歩」
短く答えて歩き続ける。
王宮の華やかな装飾も、庭園の美しい花々も、彼の目には灰色の風景としか映らない。
食事の時間になっても、何も感じない。
豪華な料理が並んでも、口に入れれば消える物質でしかない。甘いとか、辛いとか、そういう感覚はある。だが、それが「美味しい」のか「まずい」のか、よく分からない。
「今日も残すのですか、アレクシス様」
給仕が困った顔をしている。少なくとも、周りの大人たちは彼を見て心配そうな表情を浮かべる。でも、アレクシスには「困った顔」というものが理解できない。眉が下がって、口角が下がる。それが「困った」を表すらしい。でも、なぜそんな表情をするのだろう。
「お腹がいっぱいなんだ」
嘘だった。
空腹でも満腹でも、彼にとっては同じこと。ただ、この決まり文句を言えば、大人たちは諦めてくれることを学習していた。
ある日、いつもと違う廊下に迷い込んだ。そこは使用人たちが使う通路で、王族が立ち入ることは稀だった。
香ばしい匂いが漂ってくる。でも、アレクシスにとってそれは単なる「匂い」でしかない。音に引かれて進むと、厨房の裏口にある外の広間に辿り着いた。
そこには、一人だけ王宮の使用人や給仕とは違った雰囲気の男がいた。
短く刈り込んだ髪、日に焼けた肌、そして腕には古い傷跡。そして、後ろ髪を短く後ろで縛っていた。
他の王宮の料理人たちとは明らかに違う、荒々しい雰囲気を纏っていた。
「ったく。ヨハンの野郎も、いい加減料理にケチつけるのも大概にしてくれなねえかな……」
独り言を呟いている彼をアレクシスは立ち止まって見ていた。
「ん……おい、坊主。覗き見は良くないぞ」
その男がアレクシスに向かってきた。
「……」
アレクシスは料理人と思しき人物を見上げた。やはり顔は認識できない。
ただ、声が他の大人たちとは違うことだけは分かった。
「どっかの貴族の子か? 腹減ってんのか?」
「お腹は空いてない」
いつもの返答をしたが、男は信じなかった。
「嘘つけ。子供ってのは、いつでも腹を空かせてるもんだ」
男は厨房に戻ると、小さな皿を持って戻ってきた。そこには、シンプルなポトフが盛られていた。王宮の料理とは比べ物にならないほど質素な、兵士たちが食べるような料理。
「ほら、食え」
「いらない」
「年の割にはませた子供だな。いいから一口食ってみろ」
男の強引さに負けて、アレクシスは仕方なくスプーンを手に取った。一口、口に入れる。
その瞬間──
アレクシスの見ていた世界が、変わった。
口の中に広がる温かさ。それは単なる温度ではなかった。じゃがいもの優しい甘み、肉の深い旨み、それらが絡み合って生まれる何か。
胸の奥が、熱くなった。
これは……?
生まれて初めて感じる感覚に、アレクシスは戸惑った。
「どうした、坊主?」
男の声が遠くから聞こえる。
「これは……何?」
震える声で問いかけると、男は豪快に笑った。
「何って、『ただのまかない料理』のポトフだ。でもな──」
男は腕を組み、アレクシスを見下ろした。
「料理ってのは、作る奴の気持ちが込もるもんだ。俺はな、腹を空かせたガキに美味いもんを食わせてやりたいと思って作った。それだけさ」
そして、男は付け加えた。
「『料理は言葉より雄弁だ』覚えとけ、坊主」
その言葉が、七歳のアレクシスの心に深く刻まれた。
◆◆◆◆◆
翌日から、アレクシスは厨房に通い始めた。
しかし、あの料理を食べさせてくれた男の名前は知らない。いや、覚える必要を感じなかった。ただ「あの料理を作る人」としてただ認識していた。
厨房では、様々な料理を食べさせてもらった。素朴な野菜スープ、香ばしく焼いた魚、甘い焼き菓子。どれも王宮の豪華な料理とは違って、シンプルで飾り気がなかった。
でも、食べるたびに胸が熱くなった。世界に色が付いたような、不思議な感覚に包まれた。
ただし、それは料理を食べている時だけだった。厨房を離れれば、また灰色の世界が戻ってくる。人々の顔は相変わらず判別できないし、何をしても心は動かない。
ある日、厨房で『あの料理人』と他の料理人たちの会話を耳にした。
「なあ、聞いたか? 俺たちも戦場に駆り出されるらしいぞ」
「ああ、獣人どもの復権派鎮圧だってな。王国軍の補給部隊として」
「ったく、また戦争かよ。せっかく終わったと思ったのに」
「しょうがねえだろ。上の命令だ」
アレクシスには、彼らが何を話しているのかよく分からなかった。戦争? 復権派? それが何を意味するのか、七歳の彼には理解できなかったし、興味もなかった。
「おい、あんたも行くのか?」
誰かが、例の男に話しかけた。
「ああ、俺も行くさ。元々、軍の料理兵だったからな」
「なあ『エルベルト』その腕の傷、戦場で負ったんだろ?」
「昔の話さ」
エルベルト──初めて聞いた名前だったが、アレクシスは特に気に留めなかった。名前なんて、彼にとってはどうでもいいことだった。
数日後、男は厨房から姿を消した。
他の料理人たちが作る料理を食べても、もうあの感覚は蘇らなかった。胸が熱くなることも、世界に色が付くこともなかった。
アレクシスは再び、灰色の世界に戻った。
◆◆◆◆◆
九歳になったアレクシスは、一つの決意をした。
あの男が言っていた「料理は心を伝える」という言葉。
自分には「心」がないのかもしれない。でも、料理を通じてなら、何かを感じることができる。
言葉がなくても気持ちを伝えられる。『料理は言葉より雄弁だ』というあの料理人の言葉。
それなら──
アレクシスは「演技」を始めた。
鏡の前で笑顔を作る練習。口角を上げて、目を細める。これが「嬉しい」の表情。
人の名前を覚える訓練。顔は分からなくても、声の特徴、歩き方、服装で識別する。
感情を表す言葉の暗記。「ありがとう」「ごめんなさい」「嬉しい」「悲しい」──適切な場面で適切な言葉を使えるように。
そして、料理の勉強。王立料理学校への入学。
理論を学び、技術を磨く。完璧な料理人になれば、きっとあの感覚を再現できるはずだと信じて。
◆◆◆◆◆
現在に戻る。
十九歳のアレクシスは、完璧に仔羊を調理し続けていた。ローズマリーとタイムで香り付けをし、初夏らしい爽やかなソースを準備する。技術的には申し分ない。理論的にも完璧だ。
でも──
横目でリュカを見る。彼女は劣った肉を前に、必死で最良の部分を探している。その真剣な眼差し、震える獣耳、それでも諦めない姿勢。
彼女の中には、確かに「心」がある。
料理への純粋な想い。それが彼女の一挙一動から溢れ出ている。
「僕の料理には、まだ『心』がない」
アレクシスは小さく呟いた。
優秀な料理人。
すべて「仮面」だ。本当の自分は、今も灰色の世界に生きている。
ただ、リュカを見ていると、また胸が熱くなる。
彼女の料理を食べた時、十二年ぶりにあの感覚が蘇った。世界に色が付いた。
だからこそ、彼女を守りたい。
彼女のような料理人が活躍できる世界を作りたい。
彼女のような料理人が活躍できる社会でなくてはならない。
種族共存──それは崇高な理想などではない。
ただ、自分も「感じたい」から。
獣人も、エルフも、ドワーフも、みんな豊かな感情を持って生きている。
彼らと料理を通じて繋がれば、きっと自分も本当の意味で生きられるはずだ。
アレクシスは手を止めずに調理を続けながら、心の中で誓った。
いつか必ず、エルベルトと呼ばれていた料理人ような料理を作れるようになる。
技術や理論ではなく、心で作る料理を。
そのためにも、リュカのような本物の料理人たちと共に歩んでいきたい。
時計を見ると、残り時間は十五分。
アレクシスは深く息を吸い込み、最後の仕上げに取り掛かった。今はまだ「心」がなくても、いつかきっと──その想いを込めて、一皿を完成させていく。
アレクシスは仔羊の最後の仕上げに取り掛かろうとして、ふと手を止めた。
香辛料のコーナーに目をやる。
そこには一般的なハーブや香辛料に混じって、一つだけ異質な小瓶が置かれていた。
淡い紫色の粉末が入った、魔素が含まれる香辛料。
「まさか……あれを使うつもりか?」
隣の調理台の受験者が、アレクシスの視線に気づいて呟いた。
魔素入り香辛料──それは料理に独特の深みと輝きを与えるが、扱いを誤れば料理全体を台無しにする危険な代物だった。適切な処理をしなければ、苦味と金属臭が料理を支配し、最悪の場合は軽い中毒症状を引き起こす。
これは明らかに試験の罠だった。受験者の判断力を試すための、触れてはいけない香辛料。
だが、アレクシスは迷いなくその小瓶を手に取った。
「おい、正気か?」
「あいつ、落ちたな……」
周囲の受験者たちがざわめき始める。試験官たちも、意外そうな表情でアレクシスを見つめていた。
アレクシスは静かに小瓶の蓋を開け、中身を確認した。淡い紫色の粉末から、微かに魔素特有の刺激臭が漂う。普通の料理人なら、この時点で使用を諦めるだろう。
しかし、彼は迷いなく作業を始めた。
まず、別の小皿に普通の塩を用意する。そこに魔素入り香辛料をごく少量──ほんの耳かき一杯程度を加えた。さらに、そして細かく刻んだローズマリーを混ぜ込み、すり鉢で擦る。
「何をしているんだ……?」
誰かが呟いた。
アレクシスは調合した粉末を、仔羊の表面に薄く、本当に薄くまぶした。
そして、フライパンを強火にかける。
次の瞬間、彼は誰も予想しなかった行動に出た。
フライパンに火を入れた瞬間、彼は手首を返して、炎を一瞬だけ肉の表面に這わせた。青白い炎が一瞬だけ肉の表面を舐め、肉の周りに青き炎が煌びやかに纏われる。
会場が静まり返った。
魔素の燃焼──それは極めて高度な技術だった。
適切な文量。適切な温度。適切な時間で魔素を燃焼させることで、その毒性を無害化し、代わりに独特の芳香と旨みだけを残す。
アレクシスの手つきは迷いがなかった。彼は幼い頃から、密かにこの技術を研究していた。いつか、料理に「何か」を加えられるようになりたいと願って。
肉を返し、もう一度同じ動作を繰り返す。青白い炎が踊り、すぐに消える。その度に、不思議な香りが立ち上った。それは魔素特有の刺激臭ではなく、どこか懐かしい、温かみのある香りだった。
「信じられない……完璧に制御している」
試験官の一人が、思わず呟いた。
アレクシスは黙々と調理を続けた。魔素を使うことで、仔羊の肉に今までにない深みが生まれていく。それは単なる味の深さではなく、まるで肉そのものが持つ生命力を引き出すような、不思議な変化だった。
横目でリュカを見ると、彼女も驚いたような表情でこちらを見ていた。獣人の鋭い嗅覚が、普通の人間には感じ取れない微細な変化を捉えているのだろう。
──これが、僕にできる精一杯だ。
アレクシスは心の中で呟いた。
エルベルトのような「心」はまだない。
でも、せめて技術だけでも、誰も真似できないものを。この魔素の扱い方も、いつか誰かの役に立つかもしれない。
もしかしたら、リュカのような本物の料理人が、この技術をさらに昇華させてくれるかもしれない。
彼女の持つ「心」と、この技術が合わされば──
アレクシスは最後の仕上げに入った。初夏らしい爽やかなソースに、ほんの一滴だけ魔素を燃焼させた油を加える。それだけで、ソース全体が生き生きと輝き始めた。
「時間です!」
試験官の声が響く。
アレクシスは静かに皿を置いた。技術的には完璧、理論的にも申し分ない。そして、誰も使わなかった魔素入り香辛料を完璧に制御した、独創的な一皿。
でも彼自身は知っていた。これはまだ、本当の料理ではない。
エルベルトが作ったような、心を震わせる料理ではない。
ただ、いつかきっと──
アレクシスは調理台を片付けながら、再びリュカの方を見た。彼女もちょうど料理を完成させたところのようだった。
その姿に、アレクシスは確信した。
自分に足りないものを、彼女は持っている。
そして彼女に足りないものを、もしかしたら自分は持っているかもしれない。
二人が出会ったことには、きっと意味がある。
いつか──
その想いを胸に、アレクシスは静かに試験の終了を待った。




