第6話:孤独な試験
ペア実技試験の終了を告げる試験官の声が響くと、会場内は一瞬の静寂に包まれた。そして次の瞬間、受験者たちの安堵のため息と、緊張から解き放たれた疲労が、空気を重くした。
リュカは深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。彼女の獣耳は疲労で少し垂れていたが、その表情には確かな充実感が宿っていた。隣のアレクシスも同様に、満足げな笑みを浮かべている。
「……お疲れ様でした」
リュカの小さな声に、アレクシスは振り返った。
「こちらこそ。君との調理は本当に素晴らしい体験だった」
彼の銀青色の瞳には、深い感動が込められていた。
二人は無言で、自分たちが作り上げた三皿のコースを見つめた。前菜の色とりどりの野菜、黄金色に輝く鯛の鱗、そして優しい甘さのデザート。それらは単なる料理を超えて、二人の心が作り出した芸術作品のように見える。
「僕一人では、絶対にこんな料理は作れなかった。君の感覚、君の技術……それは本当に特別なものだよ」
アレクシスの言葉にリュカの頬がわずかに紅潮した。こんなに自分の能力を認めてもらえたのは、エルベルト以来だった。
「私こそ……アレクさんの知識がなければ、こんなに美しい盛り付けはできませんでした」
彼女の声は小さかったが、心からの感謝が込められていた。
「それに、一人で調理するのとは全然違いました。とても……とても、楽しかったです」
その言葉に、アレクシスの表情が一層柔らかくなった。彼女の瞳が輝いているのを見て、アレクシスは思わず微笑んだ。普段は緊張感に包まれた彼女の表情が、今は喜びで明るく照らされている。その姿に、彼は改めて彼女がまだ十三歳の少女であることを思い出した。
「僕もだよ。君と一緒に料理をしていると、なんだか……料理本来の喜びを思い出せる気がした」
二人の間に、深い理解と信頼が生まれていた。種族の違い、育ちの違い、すべてを超えて、純粋な料理への情熱が二人を結びつけていた。
しかし、その温かな空気は長くは続かなかった。
「……あの獣人の子、やけに上手かったな」
少し離れた場所から、ささやき声が聞こえてきた。リュカの鋭い聴覚が、その言葉を拾い上げてしまう。
「まあ、あの青年がうまくサポートしていたからだろう」
「そうだな。一人になったら、どの程度のものか」
リュカの獣耳が、痛みを感じるように後ろに倒れた。彼女の表情から、先ほどまでの充実感が少しずつ失われていく。
アレクシスも、その変化に気づいた。
「気にしなくていいよ」
彼は優しく声をかけた。
「君の技術は本物だ。誰に何を言われても、それは変わらない」
「……はい」
リュカは小さく頷いた。少しの不安が目に宿ったが、すぐに気持ちを切り替えるように背筋を伸ばした。
その時、試験官の声が響いた。
「受験者の皆様、お疲れ様でした。ペア実技試験はこれで終了となります。今回作成いただいた料理に関する講評は、試験終了後の合否発表と併せて行います」
会場内の話し声が止んだ。
「十五分の休憩の後、午後の部第二部、個人実技試験を開始いたします」
リュカの獣耳が集中を示すように前に向いた。
「個人実技試験のテーマは『ヴィアンド』です。つまり皆様には『肉料理』を調理していただきます。詳細は、試験開始前に説明させていただきます」
肉料理――それは彼女が得意とする分野ではあったが、一人で、周囲の視線の中で調理をしなければならない。リュカは一瞬だけ緊張したが、すぐに心を落ち着かせた。
「なお、この試験では純粋な個人技術のみを評価いたします。他の受験者との協力や相談は一切禁止です」
試験官の言葉に、リュカは深く息を吸い込んだ。
アレクシスは彼女を見つめ、そっと声をかけた。
「大丈夫だよ。君なら必ずできる」
「ありがとうございます」
リュカは小さく頷いた。その声は震えていたが、逃げ出したい気持ちを必死に押し殺そうとしているのが伝わってきた。
十五分の休憩時間が始まった。受験者たちは思い思いの場所で体を休めているが、リュカの周りだけは人の輪ができていない。まるで見えない壁があるかのように、誰も近づこうとしない。
「少し外の空気を吸いに行こうか」
アレクシスが提案した。
「は、はい……」
二人は会場を出て、中庭の静かなベンチに腰を下ろした。夕方の柔らかな陽射しが、石畳に長い影を作っている。
リュカはベンチに座ると、小さくため息をついた。そして何気なく呟いた。
「その……アレクさんは、どうして料理人になりたいと思ったんですか?」
その問いかけには、純粋な好奇心と、少しの寂しさが混じっていた。一人で戦い続けてきた彼女にとって、同じ道を志す人の想いを知りたかったのかもしれない。
アレクシスは少し考えてから答えた。
「料理には、言葉を超えた力があると思うんだ。料理の前には、立場や身分、ましてや種族なんて誰であるかは関係ない。……まあ、かつて僕の師匠とも呼べる料理人の受け売りではあるんだけど、僕が料理人を目指したのは、その人の考え方に深く共感したからなんだ。『料理は言葉よりも雄弁だ』師匠の言葉で、僕が一番好きな言葉なんだ。……まあその彼から料理を学んだことは一度もなかったんだけどね」
彼の銀青色の瞳が、遠くを見つめるように輝いた。
「君と一緒に料理をして、それをより強く感じた。君の料理には、確かに心があるんだ」
リュカの獣耳がぴくりと動いた。その言葉——『料理は言葉よりも雄弁だ』——聞き覚えがある。いや、聞き覚えがあるどころではない。それは——
「……養父が、いつも言っていた言葉です」
リュカの声は震えていた。翡翠色の瞳が大きく見開かれ、アレクシスを見つめる。
「え?」
アレクシスも驚いた表情を浮かべた。
「君のお父さんが? まさか、君のお父さんは——」
その時、中庭に鐘の音が響いた。休憩時間終了の合図だった。
リュカとアレクシスは同時に立ち上がったが、二人の間には新たな謎と驚きが漂っていた。この偶然の一致が何を意味するのか——それを確かめる時間はもうなかった。
「後で……後で話しましょう」
リュカの声は小さかったが、その中には確かな期待が込められていた。
「ああ、必ず」
アレクシスも頷いた。彼の表情には、困惑と興味、そして何か大切なものを発見したような光が宿っていた。
二人は急ぎ足で調理実習室へと向かった。彼女の獣耳は前を向き、翡翠色の瞳には静かな決意と、新たな希望の光が宿っていた。
◆◆◆◆◆
調理実習室に戻ると、試験官が既に準備を整えて待っていた。受験者たちも各自の調理台に戻り、緊張した面持ちで次の指示を待っている。
「それでは、個人実技試験について詳しく説明いたします」
試験官の厳格な声が会場に響いた。
「テーマは『肉料理』。ただし、これは単純な肉料理ではありません」
会場内の空気が一層引き締まった。
「皆様には『季節感』と『独創性』を表現した肉料理を作成していただきます」
リュカの獣耳が集中するように前を向いた。
「季節感とは、現在の季節――初夏――にふさわしい爽やかさや彩りを料理に込めることです。独創性とは、既存の調理法にとらわれず、あなた自身の創造力を発揮することです」
試験官は続けた。
「制限時間は四十分です」
会場内がざわめいた。
「え、四十分?」
「短すぎるだろう」
「食材選びの時間も含めて?」
受験者たちの間に動揺が広がる。これまでの練習では、通常このレベルの料理には最低でも一時間半は必要だった。
「静粛に」
試験官の声が会場を制した。
「内訳は、食材選択に十分間、調理・盛り付けに三十分間です。この時間内に、食材の選択から調理、盛り付けまでのすべてを完了してください」
会場内に重苦しい沈黙が下りた。四十分で季節感と独創性を表現した肉料理を完成させる――それは並大抵の技術では不可能に近い難易度だった。
「これは技術だけでなく、料理人としての総合的な能力を問う試験です。限られた時間の中で最適な判断を下し、確実に実行する――これこそが一級調理師に求められる真の実力です」
リュカは深く息を吸い込んだ。確かに厳しい条件だったが、逆に言えば、すべての受験者が同じ困難に直面するということでもある。
「使用する肉の種類、調理法、盛り付け、すべてあなたの判断に委ねられます。ただし、肉が主役となる料理であることは必須条件です」
会場内に緊張が走った。
「なお、この試験では他の受験者との協力や相談は一切禁止です。純粋にあなた個人の技術と創造力、そして判断力のみで勝負していただきます」
リュカは背筋を伸ばし、集中力を高めた。短時間だからこそ、迷いは禁物だった。
「評価ポイントは、技術力、創造力、季節感の表現、時間管理能力、そして最も重要な『味』です」
試験官の目が会場内を見回した。
「一級調理師には、単なる技術者ではなく、食文化を創造し、人々の心に響く料理を作る芸術家としての能力が求められます。そして何より、どのような状況下でも最高の結果を出すプロフェッショナルとしての力量が必要なのです」
「質問はありますか?」
しばらく沈黙が続いた後、一人の受験者が手を上げた。
「調味料や香辛料の制限はありますか?」
「ありません。ただし、会場に用意されているもののみ使用可能です」
別の受験者が質問した。
「肉以外の食材の使用は?」
「主役が肉である限り、野菜や香草などの使用は自由です」
リュカの頭の中で、料理のイメージが形作られ始めていた。初夏の爽やかさ、肉の旨みの引き出し方、そして自分だけの独創性――エルベルトから学んだすべてを注ぎ込もうと決意した。
「それでは、食材置き場で食材を選択してください。選択時間は十分間です」
受験者たちが一斉に立ち上がった。リュカも立ち上がったが、その瞬間、周囲の視線が彼女に集中するのを感じた。しかし今度は、それに縮こまることなく、堂々と前を見据えた。
「さあ、獣人の実力を見せてもらおうか」
「一人でどこまでできるかな」
「化けの皮が剥がれるぞ」
囁きが聞こえてきたが、リュカはそれらを遠くの雑音のように流した。彼女の意識は既に料理の世界に没入し始めていた。
その時、アレクシスが小さく声をかけた。
「君なら大丈夫。自分を信じて」
彼の言葉に、リュカは微笑みながら頷いた。獣耳を前に向け、決意を込めて食材置き場へと向かった。
食材置き場には、様々な種類の肉が並んでいた。牛肉、豚肉、鶏肉、そして珍しい鹿肉や羊肉まで。リュカは目を閉じ、深く息を吸い込んだ。彼女の鋭敏な嗅覚が、それぞれの肉の状態を瞬時に判断していく。
まず、牛肉のコーナーに立ち寄った。リュカは丹念に各部位の色と艶を観察し、そっと手を近づけて香りを嗅ぐ。肉からは微かな熟成の香りが漂い、彼女の獣耳が反応して少し動いた。
「このお肉が、今日一番の状態……」
彼女は小声で呟いた。指先でそっと肉に触れ、その弾力と脂の質感を確かめる。鮮やかな赤色の中に、きめ細かな霜降りが美しく入っていた。
リュカは慎重にリブロースを手に取り、自分の調理台に運んだ。置いてから少し考え、やはり他の肉も見ておくべきだと思い直した。
「香辛料も選ばなければ……」
彼女は調理台に肉を置いたまま、香辛料のコーナーへと向かった。初夏の季節感を表現するには、香りの鮮やかさと風味の軽やかさが必要だ。
リュカの獣耳が前に傾き、集中力が高まっていく。彼女の鼻がかすかに動き、無数の香りの中から最適な組み合わせを探っていた。
そんなリュカの姿を、一人の男性受験者が冷ややかな目で見つめていた。厨房長風の威厳ある風貌をした三十代の男性で、その眼差しには明らかな敵意が込められていた。
「獣人風情が……」
男は周囲を確認すると、誰も見ていないことを確かめてリュカの調理台に近づいた。彼女の選んだ最高級のリブロースを手に取り、素早く別の肉と入れ替えた。それは色こそ似ているが、明らかに質の劣る胸肉の一部だった。
男は何食わぬ顔で自分の調理台に戻ると、さも当然のように準備を始めた。
香辛料と野菜を選び終えたリュカが調理台に戻ってきた時、彼女の獣耳がピクリと動いた。何かが違う。微かな違和感が彼女の感覚を刺激する。
彼女は首を傾げ、テーブルに置かれた肉を見つめた。一見すると、彼女が選んだリブロースのように見えるが……
「これは……」
リュカは肉に近づき、匂いを嗅ごうとした。その瞬間、試験官の声が響いた。
「食材選択時間が終了しました。これより個人実技試験を開始します」
リュカの心臓が跳ねた。確認する時間がない。だが、明らかにおかしい。彼女の獣耳が困惑で後ろに倒れる。
だが今は、それを考えている暇はない。既に時間は動き始めている。リュカは深く息を吸い込み、心を落ち着かせようとした。どんな状況でも、料理を作るのが料理人の使命。
彼女は目の前の肉に向き合い、まずはその状態を正確に把握することに集中した。選択の時間に感じた違和感の正体を突き止めなければ。
リュカは観察するまでもなく、気づいていた。これは彼女が選んだリブロースではなく、明らかに質の劣る胸肉だった。肉質が荒く、鮮度も落ちている。
リュカの心が凍りつく。
――誰かが、わざと私の肉をすり替えたんだ。
彼女の周りを見回すと、三十代の男性が意味ありげな笑みを浮かべているのが見えた。その表情に、リュカの獣耳が苦痛で縮こまる。
だが、エルベルトの言葉が彼女の心に響いた。
『料理人は、どんな素材が与えられても、その素材が持つ最高の可能性を引き出すものだ』
リュカは深く息を吸い込んだ。眉間にしわを寄せ、この困難を乗り越えるための道を探り始めた。獣人としての鋭敏な感覚を総動員して、この劣った肉からでも最高の一皿を作り出す方法を必死で考えていた。
彼女の獣耳が再び前を向き、決意の表情を浮かべる。
――たとえどんな妨害があっても、料理で答えを出す。
リュカは手を伸ばし、肉を手に取った。その刹那、料理人としての闘志が彼女の体内に静かに、しかし確実に燃え上がっていった。




