第5話:二人の調律
調理師協会の建物に戻ると、受験者たちが既に集まり始めていた。緊張した面持ちの中、試験官が前に立った。
「それでは、午後の実技試験について改めて説明いたします」
会場内が静まり返った。
「午後は二部構成となります。第一部はペア実技、第二部は個人実技です」
試験官の厳格な声が響く。
「第一部では、受験番号順のペアで、『前菜・魚料理・デザートの三皿コース』を一時間で作成していただきます」
会場内にどよめきが起こった。三皿を一時間というのは、初めてペアを組む状況で、かなり重い試験内容だった。
「評価ポイントは、技術力はもちろんですが、特に重視するのは『連携力』『分担の適切さ』『時間管理能力』です」
試験官は続けた。
「一級調理師には、単独での調理技術だけでなく、厨房全体を統括し、他の料理人と協調して料理を完成させる能力が求められます。この試験では、その能力を評価いたします」
リュカの獣耳が緊張で立った。しかし、隣にいるアレクシスへの信頼が、その緊張を和らげていた。
「ただし、これは技術試験であると同時に、人間性の試験でもあります」
試験官の言葉に、会場内の空気が変わった。
「料理は一人で作るものではありません。素材を育てる人、運ぶ人、そして食べる人——多くの人との関わりの中で生まれるものです。相手を理解し、尊重し、協力する。その姿勢も、私たちは見させていただきます」
アレクシスとリュカは顔を見合わせた。昼食での体験が、この言葉に深い意味を与えていた。
「なお、使用する食材と調理器具は会場に用意されています。ただし、数に限りがありますので、ペア同士で相談し、計画的に使用してください」
これは他のペアとの協調性も評価対象に含まれることを意味していた。
「質問はありますか?」
会場内を見回した試験官に、一人の受験者が手を上げた。
「味付けや調理法に制限はありますか?」
「ありません。ただし、前菜・魚料理・デザートという区分けは守ってください。また、三皿の調和も評価対象です」
リュカは隣のアレクシスを見た。彼の銀青色の瞳には、深い決意と期待が宿っていた。
リュカの視線に気づいたアレクシスは微笑んだ。
「君の感覚と僕の知識を合わせれば、きっと素晴らしいコースが作れる。とても楽しみだよ」
試験官が再び口を開いた。
「それでは、調理実習室へ移動してください。各ペアには調理台が一つずつ割り振られます。制限時間は一時間。開始の合図で調理開始、終了の合図で手を止めてください」
受験者たちがぞろぞろと調理実習室へ向かう中、リュカとアレクシスは特別な期待を胸に歩いていた。昼食での発見が、この試験を単なる資格取得の場から、料理の新たな可能性を探求する場へと変えていた。
◆◆◆◆◆
調理実習室に入ると、そこは広大な空間に調理台が整然と並んでいた。最新の調理器具と豊富な食材が準備されている。リュカの鋭い嗅覚が、様々な食材の状態を一瞬で把握していく。
「……すでに君にはわかってそうだね。魚の状態はどう見えている?」
アレクシスが期待を込めて聞いた。
リュカの獣耳が集中するように前を向いた。彼女の能力を心から信頼してくれる人がいる。それが、彼女にとってどれほど大きな力になるか。
「とても新鮮です。特に、あの鯛と……あちらの鮭が素晴らしい状態です」
「完璧だよ。食材は君の目利きで選んでいこう、一緒に最高の三皿のコースを作ろう」
二人は割り当てられた調理台に向かった。他のペアたちとは明らかに違う、深い信頼と理解に基づいた関係性がそこにあった。
「それでは、制限時間一時間、三皿コース調理実技試験を開始します!」
試験官の声と共に、会場内が一斉に動き出した。
リュカとアレクシスは食材置き場へと急いだ。他のペアも同時に動いており、限られた食材を巡って静かな競争が始まっていた。
「まず魚からだね」
アレクシスが提案し、二人は魚介類のコーナーへ向かった。氷の上に並ぶ様々な魚を前に、リュカの獣耳が前傾した。
彼女は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。瞬間、彼女の表情が変わる。まるで見えない情報の波が彼女を通り抜けるように、獣耳がわずかに震えた。
「この鯛は……昨日の朝に揚がったものですね。鱗もとても美しい状態です」
リュカの指が、氷上の魚に一切触れることなく、空中で魚の上を滑っていく。
「あの平目は……少し時間が経ちすぎています。まだ食べられますが、今日の試験には向きません」
アレクシスは驚愕していた。彼女は魚に触れることなく、ただ香りと目視だけで鮮度を完璧に判定している。
彼女は迷わず最も状態の良い鯛を選んだ。鱗は銀色に美しく輝き、目は澄んでいた。その判断の速さと正確性に、近くにいた他のペアの受験者たちも注目し始めていた。
野菜のコーナーに移ると、リュカの異質さはさらに際立った。
アレクシスが美しい形のトマトに手を伸ばそうとしたとき、リュカが小さく首を振った。
「そちらではなく、こちらを」
彼女が示したのは、見た目がやや劣る別のトマトだった。
「へえ……その理由をきいても?」
「軽く叩いてみてください」
アレクシスが指示に従って指でトマトを軽く叩くと、微かに鈍い音がした。
「中が少し傷んでいるんです。こちらの方が……」
リュカが選んだトマトを叩くと、澄んだ心地よい音が響いた。
「内部の水分バランスが完璧です。甘みも酸味も理想的な状態にあります」
アレクシスは言葉を失った。彼女は外見だけで野菜の内部状態まで判断している。それは単なる経験では説明のつかない、超人的とも言える感覚だった。
香草のコーナーでも、リュカの能力は遺憾なく発揮された。彼女は一つ一つの葉を手に取ることなく、香りだけで最適なものを選び出していく。
「このバジルは朝摘みですね。露がまだ残っています」
「こちらのローズマリーは……とても良い状態で保存されているようです」
彼女の選択は常に完璧だった。アレクシスは次第に彼女の判断を無条件に信頼するようになっていた。理論で考える前に、リュカの感覚の方が正確だということを理解したからだ。
食材選びを終えて調理台に戻ると、二人は自然と役割分担を始めた。
「前菜は僕が、魚料理は君がメインで。基本的には君のサポートに回るようにするよ。君の技術を目の前でみたいからね」
「……わかりました。では、デザートは一緒に作りましょう」
作戦を確認し終えると、リュカは深く息を吸い込んだ。彼女の獣耳がゆっくりと前を向き、翡翠色の瞳に集中の光が宿る。
そして——調理が始まった。
時間が進むにつれ、二人の調理は次第に一つのリズムを刻み始めた。
アレクシスが野菜を切る音と、リュカが魚を処理する音が重なり合い、まるで二重奏のような美しいメロディーを奏でる。彼らの動きは互いを邪魔することなく、流れるように連携していた。
「前菜の野菜の火通しはどのくらいが望ましい?」
アレクシスが作業の手を止めずに尋ねる。
「表面に艶が出て、芯にほんの少し硬さが残るくらいが理想的です」
リュカの返答も途切れることがない。彼女の手は鯛の処理に集中している。お互いに眼を合わせることはない。ただ、相手と呼吸を合わせるように、互いの動きを先読みし、息を合わせる。
二人の会話は短く、的確だった。まるで長年連れ添った音楽家たちが、楽譜を見ることなく美しいハーモニーを奏でるように、お互いの意図を瞬時に理解し合っていた。
リュカが魚の処理に集中すると、その光景はさらに芸術的になった。
他の受験者たちが当然のように鱗を取り除く中、リュカは鯛の美しい鱗をそのまま残していた。丁寧に内臓を取り除き、骨を処理した後、彼女は鱗付きのまま切り身にしていく。
「鱗を残す?」
アレクシスが興味深そうに尋ねた。
「はい。鱗にも美味しさがあるんです」
リュカの手さばきはまるで彫刻家が大理石に命を吹き込むような、精密で美しい動作だった。鱗を傷つけることなく、完璧な厚さの切り身にしていく。
一方、アレクシスは前菜の野菜を丁寧に処理していた。彼の動作もまた芸術的だった。茹で時間を秒単位で管理し、野菜が持つ本来の色と食感を最大限に引き出していく。
二人の調理は、まるで異なる楽器を演奏する音楽家たちのようだった。リュカの繊細で直感的な調理が高音部のヴァイオリンなら、アレクシスの理論的で精密な調理は低音部のチェロ。異なる音色でありながら、完璧に調和した協奏曲を奏でていた。
「アレクさん、香草オイルの準備をお願いします」
リュカの声に、アレクシスは即座に反応した。彼は選び抜かれた香草とオリーブオイルを小鍋に入れ、高温で熱し始める。
「かなり高温で。熱した油を魚にかけるんです」
「ああ、なるほど。了解した、それは面白いね」
アレクシスはリュカの意図を理解したようだった。二人の対話は途切れることがなく、しかし決して急がない。まるで呼吸を合わせるように、自然なリズムで進んでいく。
リュカは鯛の切り身に軽く塩を振り、皿に美しく盛り付けた。鱗の銀色の輝きが、まるで宝石のように美しかった。
アレクシスは香草オイルを見守りながら、同時にデザート用の材料を準備していた。彼の両手は別々の作業を行いながらも、リュカの動きに合わせて調整されている。まるで指揮者が複数の楽器を同時に指揮するような、高度な技術だった。
そして、最も美しい瞬間が訪れた。
香草オイルが理想的な温度に達したとき、リュカとアレクシスの動きが完全に同期した。
「今です」
リュカの小さな声に、アレクシスが熱した香草オイルを掬い上げた。二人の手が一瞬触れ合い、その連携の完璧さに会場内がざわめいた。
そして——
アレクシスが熱したオイルを、リュカが指し示した鯛の切り身に丁寧にかけていく。
瞬間、魔法のような光景が生まれた。
熱いオイルが鱗に触れると、鱗がぱちぱちと音を立てて跳ね、まるで花が開くように美しく反り返った。銀色の鱗が黄金色に変化し、香草の香りが立ち上る中で、鯛の身は完璧に火が通っていく。
リュカの予想通り、鱗はサクサクとした食感の美しい装飾となり、魚の身は中までふっくらと仕上がった。
「見事だ……」
アレクシスの声は感嘆で震えていた。鱗が揚がって作り出した模様は、まるで芸術作品のように美しかった。
この時、二人は完全に一体となっていた。アレクシスがソースの最終調整をする間、リュカは付け合わせの野菜を準備する。彼らの動きは水の流れのように滑らかで、一切の無駄がなかった。
二人の調理は、優雅で美しい調和を見せていた。時には交差し、時には並行し、常に相手を意識しながらも、自分の役割を完璧に果たしていく。
会場内の空気が変わっていた。他のペアも自分たちの調理に集中していたが、リュカとアレクシスの調理台から漂ってくる香りと、そこで繰り広げられている光景に、誰もが心を奪われていた。
審査員たちも、静かに二人の調理を見守っていた。彼らの目には、明らかな驚きと感動が宿っていた。
制限時間まで残りわずか。リュカとアレクシスは最後のデザートの仕上げに取りかかる。
ここでも、二人の連携は完璧だった。アレクシスが理論に基づいて温度と時間を管理し、リュカが感覚で最適なタイミングを判断する。まるで精密に調律された楽器の二重奏のように、美しい協調性を見せていた。
そして——
三皿のコースが完成した。
前菜は、アレクシスの技術とリュカの感覚が融合した芸術的な一品。色とりどりの野菜が美しく配置され、それぞれの素材の持つ最高の状態が引き出されていた。
魚料理は、リュカの感覚によって選ばれた最高の鯛を、二人の連携によって仕上げた逸品。黄金色に揚がった鱗がサクサクとした食感を生み出し、魚の身は完璧な火の通り具合で、香草の香りが全体を包んでいた。
デザートは、二人の協力によって生まれた調和の結晶。甘みと酸味のバランスが絶妙で、食べる人の心を和ませる優しい味わいに仕上がっていた。
「時間です! 手を止めてください!」
試験官の声が響くと、会場内の動きが一斉に止まった。
リュカとアレクシスは顔を見合わせた。二人の表情には、深い満足感と達成感が宿っていた。
しかし、それ以上に、二人の心は楽しさを見出していた。
一人で料理することの楽しさとは全く違う、誰かと協力して料理を作ることの喜び。そして、お互いの特性を理解し、尊重し合うことで生まれる、想像以上の成果。
アレクシスにとって、リュカとの調理は目からうろこの体験だった。理論だけでは到達できない境地があることを、彼女が教えてくれた。
リュカにとって、アレクシスとの調理は久しい感覚をもたらしていた。自分の感覚を理解し、信頼してくれる人と一緒に料理する喜び。それは養父以外では初めての体験だった。
会場内がざわめいていた。多くの受験者たちが、リュカとアレクシスの調理台を見つめている。そこには、他では見ることのできない特別な光景があったからだった。




