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第4話:心を通わせる昼食

 調理師協会の中庭は、建物の重厚さとは対照的に、穏やかな陽だまりに包まれていた。石造りのベンチが点在し、中央には小さな噴水が静かに水音を奏でている。昼食時間ということもあり、受験者たちがそれぞれ思い思いの場所で休息を取っていた。


 リュカとアレクシスは、中庭の奥にある人通りの少ないベンチを見つけて腰を下ろした。リュカの獣耳が周囲の音を拾いながら、緊張が少しずつ解けていくのを感じていた。


「いい場所を見つけたね」


 アレクシスが空を見上げながら言った。雲一つない青空が、午後の試験への不安を和らげてくれるようだった。


「はい……静かで落ち着きます」


 リュカは小さな布包みから、質素な弁当を取り出した。薄い木の箱を開けると、中には素朴な黒パン、白いチーズの薄切り、茹でた野菜、そして小さな燻製魚が一切れ。どれも丁寧に調理されているが、全体的に色合いが淡く、香りも控えめだった。


 アレクシスの目が、その弁当に注がれた。彼の銀青色の瞳には、好奇心と何か別の感情が混じっていた。


「君が作ったのかい?」

「はい……朝早くに」


 リュカの声は控えめだったが、そこには確かな誇りが込められていた。


 アレクシスも自分の弁当箱を取り出した。それは上質な革で作られた食器箱で、中には色とりどりの料理が美しく盛り付けられていた。香草を効かせたパイ、スパイスの香り豊かな肉の煮込み、鮮やかな色彩のサラダ——どれも技術的に完璧で、食欲をそそる強い香りを放っていた。


「僕も朝作ってきたんだ。料理人を目指すからには、やはり自分で作らないとね」


 アレクシスの料理からは、複雑で深みのある香りが立ち上っている。リュカの敏感な鼻がその香りを捉えた瞬間、彼女の獣耳がわずかに震えた。


「すごく……緻密な香りですね」

 リュカの言葉には驚きが込められていた。


「緻密?」

 アレクシスが首をかしげる。


「はい。とても芳醇な香りです。複雑ですが、すごく緻密に計算された匂い。きっと美味しいん……だと思います」


 リュカの表情には憧れと同時に、かすかな困惑が浮かんでいた。獣人である彼女にとって、人間用の料理は時には強く、人間が読み取る『美味しい』感じるとることが難しかった。


 アレクシスは一口自分の料理を食べてから、リュカの弁当に視線を移した。


「君の料理は……とても上品な香りがするね。素材の香りがそのまま活かされているみたいだ」

「獣人は味覚が敏感なので、あまり強い味付けは行ってないんです……なので、そう感じられるのは調味による味付けを強くしていないから、かもしれません」


 リュカの声が小さくなった。これは獣人が人間社会に溶け込む上での、一つの大きな障壁だった。


「なるほど、そうなのか。でも、それってすごいことじゃないか?」


 アレクシスの言葉に、リュカの獣耳がわずかに前を向いた。


「……素材本来の味を大切にするということだろう? それは料理の基本中の基本だ」

 彼はリュカの弁当をもう一度見つめた。


「よろしければ、少し味見させてもらえないかな? 君の作った料理に興味があるんだ」


 リュカは少し躊躇した後、小さなチーズの一切れを差し出した。

「でも、多分薄味すぎて……」


「ありがとう。大丈夫だよ」

 アレクシスはそれを受け取り、慎重に口に入れた。


 最初の一瞬、彼の表情にわずかな戸惑いが浮かんだ。確かに、人間の基準からすると薄味だった。しかし——

 アレクシスの瞳が見開かれた。


 口の中で、チーズの味が幾重にも重なって広がっていく。最初に感じた「薄さ」は、実は完璧に計算された奥行きだった。ミルクの自然な甘み、微かな酸味、そして塩味——それらが絶妙なバランスで調和し、舌の上で複雑な交響曲を奏でている。


「これは……」


 アレクシスの声が震えた。もう一度、今度はより慎重に味わった。すると、さらに驚くべきことに気づいた。この味わいは、チーズという素材が持つ潜在的な可能性を、完璧に引き出している。余計な要素は一切加えられていない。それなのに、こんなにも豊かで複層的な味わいを生み出している。


「君は……いったいどうやって……」


 アレクシスの銀青色の瞳が、困惑と驚愕に満ちてリュカを見つめた。


「君、このチーズの塩加減、どうやって決めたんだ?」

「塩加減……ですか?」

 リュカは首をかしげた。


「チーズを切った時の香りで……あ、でも香りだけじゃなくて、手触りも……それと、チーズの色合いとか……」

 彼女の説明に、アレクシスの驚愕は深まった。


「香りと手触りで塩加減を? それに色合いも?」

「はい。チーズの状態で、どのくらい塩味があるかわかるんです。だから、それに合わせて……」


 リュカは当たり前のことを説明するように話していた。しかし、アレクシスにとって、それは驚天動地の技術だった。


「君の嗅覚で、チーズの塩分濃度まで判断できるのか?」

「えっと……はい」


 リュカの返答に、アレクシスは言葉を失った。

 彼は王立料理学校で、科学的な調理理論を学んできた。塩分濃度の測定、pH値の計算、化学反応の理論——すべてを数値と論理で理解してきた。しかし、この獣人の少女は、感覚だけでそれらを完璧に制御している。


 アレクシスは燻製魚も一切れ分けてもらった。口に入れた瞬間、再び衝撃が走った。

 燻製の香りが鼻腔を抜け、魚の旨みが舌全体に広がる。しかし、その味わいは決して一方的ではなく、燻製の香ばしさ、魚本来の甘み、塩味——すべてが絶妙に調和している。そして何より驚くべきは、この魚の鮮度だった。


「この魚……君が調理したのか?」

「はい。……昨日の夕方、市場で仕入れしたものを夜のうちに仕込んでおきました」

「どうやって選んだんだ? この鮮度は……」

 アレクシスの声には、もはや驚愕を通り越した畏敬すら込められていた。


「香りです。それと、目の色と、鱗の艶と……あ、あと触った時の感触でもわかります」

 リュカは当然のことのように答えた。


「特に魚類や肉類は嘘をつかないんです。状態が悪いと、すぐにわかります」


 アレクシスは震える手で、もう一口食べた。この燻製魚は、完璧な状態の魚を、完璧なタイミングで燻製にしたものだった。そして、その全てを、この十三歳の獣人少女が、感覚だけで成し遂げている。


「君は……一体今まで、どういう道を歩んできたんだ。これは単なる努力や技術じゃない、間違いなく『才能』だよ」


 アレクシスは確信を込めて言った。


「僕は理論を学び、計算をして、やっと人並みの料理を作れる。でも君は……君は素材と直接対話している」

 彼はリュカの料理をもう一度見つめた。


「これは技術じゃない。これは芸術だ。いや、芸術を超えている」

 リュカの頬が紅潮した。こんなに自分の料理を称賛されたのは初めてだった。


「でも、私には理論というほどのものでは料理をしてないですので……」

「理論なんて後から付いてくる」


 アレクシスは興奮を抑えきれずに言った。


「君のその感覚、その能力があれば、どんな料理でも作れる。僕の理論なんて、君の前では机上の空論のようなものだよ」


 彼は野菜も一切れ分けてもらった。シンプルに茹でただけの野菜だったが、その味わいの深さに、再び言葉を失った。野菜の甘み、繊維の食感、すべてが完璧に仕上がっている。


「茹で時間は?」

「時間は……計っていませんが」

 リュカは困ったように言った。


「音で判断するんです。お湯の泡の音と、野菜から出る音で」

「音で?」

「はい。野菜が『もういいよ』って言うタイミングがあるんです」


 アレクシスは完全に打ちのめされた。音で野菜の茹で加減を判断する。そんな技術があることすら知らなかった。

 彼は自分の料理を一口食べた。確かに美味しい。技術的にも申し分ない。しかし、リュカの料理と比べると、なんと機械的で冷たいことか。


「君の料理には……魂がある」

 アレクシスは静かに言った。


「僕の料理は頭で作られている。でも君の料理は、心で、いや、存在全てで作られている」

 リュカは戸惑った表情で彼を見つめた。


「ただ、私は、お父さんに教わった通りにしているだけですので……そんな大層なものではないです」

「……君のお父さんは、どんな人だったんだ?」

「とても優しくて……そして、料理をとても愛していました」

 リュカの声に深い愛情が込められた。


「『素材と対話しなさい』って、いつも言っていました。『素材が何を求めているか、耳を澄ませなさい』って」


 アレクシスは深く息を吸い込んだ。リュカの料理の秘密が、少しずつ見えてきた。


「君は本当に素材と対話しているんだね」

「はい……変でしょうか?」

「変じゃない。素晴らしいんだ」

 アレクシスの銀青色の瞳が、感動で潤んでいた。


「僕はずっと、料理を征服しようとしてた。理論で支配し、技術で制御しようとしてた。でも君は……君は料理と友達になっている」


 リュカの獣耳が嬉しそうに前を向いた。


「でも、アレクさんの知識もすごいです。私には理論的なことはよくわからないから……」

「ははは、君には理論は必要ないよ。君の感覚は、どんな理論よりも正確だ」


 彼は少し考えてから続けた。


「ぜひ、今回のペア実技で僕の知識を君と分け合いたい。そして君の感覚を、僕に教えてほしい。君と一緒に料理を作れたら……きっと今まで見たことのない世界が見える気がするんだ」


 二人の間に、深い理解が生まれていた。種族の違い、育ちの違い、アプローチの違い——それら全てを超えて、料理への純粋な情熱が二人を結びつけていた。

 中庭に鐘の音が響いた。午後の部開始を知らせる合図だった。


「そろそろ時間だね」


 アレクシスが立ち上がった。その表情には、深い感動と新たな決意が宿っていた。


「は、はい……会場に戻りましょう」


 リュカも弁当箱を片付けながら立ち上がった。昼食を通じて、二人の関係は単なる受験仲間から、互いを理解し合うパートナーへと変化していた。


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