第2話:異例の受験者
調理師協会の重厚な扉をくぐると、リュカの獣耳は一斉に押し寄せる音の波に戸惑った。受験者たちの話し声、靴音、書類をめくる音――すべてが彼女の敏感な聴覚に流れ込み、思わず獣耳を後ろに倒してしまう。
「大丈夫かい?」
アレクシスの優しい声が彼女の緊張を和らげた。彼は自然な動作でリュカの前に立ち、人の流れから彼女を守るように歩いていた。
「は、はい……ありがとうございます」
リュカは小さく頷いた。アレクシスの後ろを歩きながら、彼女は改めてこの青年の不思議さを感じていた。なぜ見知らぬ獣人の少女を助けてくれるのだろうか。そして、なぜこれほど自然に優しさを示してくれるのか。
「ところで、獣人の料理人というのは珍しいね」
アレクシスが歩きながら話しかけた。その声には好奇心が込められていたが、差別的な響きは一切なかった。
「そう……ですね。私も他の獣人の料理人にお会いしたことはありません」
リュカの獣耳がわずかに動いた。確かに彼女の知る限り、王都で料理人として働く獣人は自分だけだった。
「獣人の感覚は料理に活かせそうなものだけど、なぜ少ないんだろう?」
アレクシスの質問は純粋な興味から発されたものだった。リュカは少し考えてから答えた。
「……獣人は人間よりも味覚や嗅覚が敏感なんです。だから、人間向けの料理は時として強すぎて……」
彼女の声が小さくなった。これは獣人が料理業界で活躍しにくい致命的な理由だった。
「なるほど。でも、それは逆に言えば、より繊細な料理を作れるということでもあるんじゃないかな?」
アレクシスの言葉に、リュカの獣耳がわずかに前に向いた。彼女の翡翠色の瞳に、かすかな驚きが浮かんだ。
「そう……考えたことはありませんでした」
「感覚が鋭いということは、素材の微細な変化を察知できるということだ。それは料理人にとって大きな武器になるはずだよ」
アレクシスの銀青色の瞳が、真剣にリュカを見つめた。
「君がどんな料理を作るのか、とても興味深いよ。図らずとも、今日は君の料理を見れるだろうから、これからの試験が楽しみで仕方ないよ」
リュカは頬がわずかに紅潮するのを感じた。初めて会ったばかりなのに、この青年は彼女の可能性を認めてくれている。そのことが、彼女の心に温かな光を灯した。
「ここ筆記試験の会場だよ」
アレクシスが大きな扉の前で足を止めた。扉の向こうからは、多くの人の気配が感じられる。リュカの獣耳が緊張で立ち上がった。
扉を開けると、そこには圧倒的な光景が広がっていた。大ホールには数十名の受験者が座っており、そのほとんどが三十代以上のベテラン料理人のように見えた。厳しい表情を浮かべ、試験に向けて最終確認をしている姿は、まさに戦場に臨む戦士のようだった。
リュカが会場に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
「……獣人だと?」
「子供が受験だって?」
「冗談じゃない」
ささやき声が会場内に広がり、視線が一斉にリュカに向けられた。彼女の獣耳は痛みを感じるように後ろに倒れ、体が小さく縮こまる。
「付き添いはどこにいるんだ?」
「本当に受験者なのか?」
周囲からの視線と囁きは次第に厳しさを増していく。リュカは呼吸が苦しくなるのを感じた。この場所にいてはいけないような気がしてくる。逃げ出したい衝動が心の奥から湧き上がった。
そんな彼女の横で、アレクシスは全く動じていなかった。彼は堂々と胸を張り、周囲の視線を受け流すように会場を見回した。
「気にしないで。君にはここにいる権利がある」
彼の静かな声が、リュカの震えを止めた。
「僕も十九歳だから、君ほどではないけど、この会場では若い方だ。お互い頑張ろう」
アレクシスの言葉に、リュカは小さく頷いた。確かに周りを見回すと、三十代、四十代の受験者ばかりで、二十代すら珍しい。十九歳の青年と十三歳の獣人少女――この二人は明らかに異質な存在だった。
「あそこに座ろうか」
アレクシスが会場の中ほどを指差した。そこには二つの空いた席が並んでいた。リュカは躊躇したが、アレクシスが自然に歩き出したため、その後を追った。
席に向かう途中、さらに多くの視線が二人に向けられた。
「獣人の子供に何ができる」
「どうせ記念受験だろう」
「邪魔になりそうだな」
心ない言葉が聞こえてくる。リュカの獣耳はそのすべてを拾い上げ、彼女の心を傷つけていく。足が竦み、歩けなくなりそうだった。
そのとき、アレクシスがさりげなく彼女の隣に寄り添った。
「大丈夫さ。気にする必要はないよ。君は調理師二級の資格を持ってここに立っているんだから」
彼の言葉は根拠のない慰めではなく、確信に満ちていた。
ようやく席に辿り着くと、アレクシスは迷わずリュカの隣の席に座った。周囲の受験者たちは、この二人の組み合わせに困惑しているようだった。
「隣でもいいかな?」
アレクシスがリュカに確認するように声をかけた。その優しい口調に、リュカは小さく頷いた。
「はい……ありがとうございます」
彼女の声は小さかったが、心からの感謝が込められていた。この青年がいなければ、彼女は一人で会場の片隅に追いやられ、孤独に試験を受けることになっていただろう。
「僕の方こそ、今日はよろしく」
アレクシスは自然な笑顔を浮かべた。その笑顔には、年上の青年としての頼もしさと、同じ受験者としての親しみやすさが混じっていた。
リュカは改めてアレクシスを見つめた。金色の髪を一部後ろで束ねた端正な顔立ち。銀青色の瞳には知性と優しさが宿っている。上品な身なりからは良い家庭の出身であることが伺える。なぜこのような青年が、見知らぬ獣人の少女に親切にしてくれるのだろうか。
「緊張してる?」
アレクシスの声に、リュカは我に返った。
「少し……」
「僕も緊張してるよ。でも、お互いがんばろう」
彼の言葉に嘘はなかった。よく見ると、彼の手も微かに震えている。それを見て、リュカは少し安心した。この青年も同じ気持ちなのだと知ることで、孤独感が和らいだ。
会場内にはまだ時間があるためか、受験者同士で情報交換をする声が聞こえてくる。しかし、リュカの周りには誰も近づこうとしない。獣人への警戒と、子供への不信が混じった視線が、彼女を包囲していた。
そんな中、アレクシスだけが自然に彼女と向き合っていた。彼の存在が、リュカにとって唯一の救いだった。
「試験官が来るみたいですね」
リュカの獣耳が会場の入り口の方向を向いた。彼女の鋭い聴覚が、近づいてくる足音を捉えたのだ。
「さすが、鋭い耳だ。よく気づいたね」
アレクシスが感心したように言った。間もなく、会場の扉が開き、試験官たちが入ってきた。会場内の私語が止み、緊張感が一気に高まる。
リュカの獣耳が緊張で前に向いた。いよいよ試験の始まりだった。隣に座るアレクシスの存在が、彼女にとって心の支えとなっていた。




