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第1話:孤児となった獣人の少女

 朝霧が漂うオルステリア王国——王都オリアーノの東区。石畳に薄い露が宿り、まだ街に人の気配はなかった。時計塔から五時を告げる鐘の音が、静かに街を震わせる。その音が消えゆく頃、小さな食堂「銀の厨房」の窓からは、すでに温かな明かりが漏れていた。


 十三歳の獣人少女、リュカ・ヴァレンは日の出よりも早く起き出していた。褐色の獣耳がわずかに震え、翡翠色の瞳には凛とした光が宿っている。肩まで伸びた黄土色の髪は、朝の柔らかな光に照らされ、まるで成熟した麦畑のように輝いていた。


 小さな手で清潔な白いエプロンを前に広げ、丁寧に身に纏う。部屋の奥には小さな祭壇があり、そこには古びた手記が置かれていた。表紙には『銀の厨房』と、丁寧な筆跡で記されている。それはエルベルト・ヴァレンの遺したもの。二ヶ月前に流行病で失った養父の面影は、彼の残した言葉の中に今も生きていた。


「お父さん、今日は試験の日です」


 リュカは祭壇の前に向い、小さな声で語りかけた。獣人特有の鋭い聴覚を持つ彼女には、死者の声が聞こえるわけではない。だが、この語りかけが彼女の心を支えていた。


「……私は一級試験を受けます。お父さんが守ってきたこの店を、これからも続けていくために」


 彼女の言葉には切実さがあった。王都で店を持ち続けるには、一級調理師の資格が必要だった。今日の試験に合格しなければ、今まで養父が守り続けてきた「銀の厨房」を閉めなければならない。


 リュカの獣耳が前に向かって立ち、決意を表す。

 彼女は立ち上がり、調理台へと向かう。受け継いだ銀の包丁を手に取り、丁寧に研ぎ始める。「シャッ、シャッ」という規則正しい音が、静かな朝の厨房に響く。その動きには無駄がなく、九年間エルベルトの背中を追い続けた少女の、確かな技術が宿っていた。


 包丁を研ぎ終えると、小さな木箱から特製の塩と数種の香辛料を取り出した。幼く小さい手で蓋を開け、鼻を近づける。獣人特有の敏感な嗅覚で、それぞれの香りを確かめた。


「これを持っていけば、きっと大丈夫」


 試験に必要な道具は主催者側が用意するが、この香辛料と、エルベルトの形見の銀の包丁だけは持参することにしていた。彼女はそれらを丁寧に布で包み、小さな革の鞄に収める。これは、彼女にとってお守りとしての意味を持っていた。


 窓の外を見ると、朝霧が少しずつ晴れ始めている。東区から試験会場のある中央区までは歩いて一時間以上かかる。今からでも決して早くはない。


 リュカは深く息を吸い込み、静かに目を閉じた。獣耳がわずかに動き、周囲の音を拾う。エルベルトの声が聞こえてくるような気がした。


『料理は言葉より雄弁だ』


 それは養父が常々口にしていた言葉だった。彼女はゆっくりと目を開け、もう一度手記を見つめた。


「……行ってきます」


 リュカの小さな声は、空っぽの厨房に響き、すぐに消えていった。答える人はもういない。彼女の言葉を受け止めるのは、ただ祭壇に置かれた古びた手記と、冷たくなった調理器具だけ。


 獣耳が寂しげに揺れる。リュカは服の裾を両手で握りしめ、一瞬だけその場に立ち尽くした。かつてはエルベルトの笑い声で満ちていた厨房は、今は静寂に包まれている。時が止まったかのような空気の中、少女は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。


 扉を開け、振り返ることなく、リュカは一歩を踏み出した。彼女の背後で、銀の厨房のドアが静かに閉まる音が、朝の静けさを切り裂いた。



◆◆◆◆◆



 朝靄の立ち込める小道を、リュカは静かに歩いていた。まだ店を開ける商人もまばらな時間帯。彼女の獣耳は、周囲のささやかな音を拾い上げる。石畳を叩く自分の足音、軒先で眠る猫の寝息、遠くから聞こえる市場の準備音。


 東区から徐々に中央区へと景色が変わっていく。質素な石造りの家々から、装飾の施された建物へ。通りも広くなり、道行く人々の服装も華やかになる。


 リュカは無意識に獣耳を少し下げた。中央区に入るにつれ、獣人への視線が変わることを、彼女は身をもって知っているから。エルベルトが生きていた頃は、彼の存在が彼女を守ってくれていた。だが今は違う。


「……」


 思い出が彼女の胸を締め付ける。


 九年前、四歳のリュカを路上で拾ったエルベルト。当時のことは断片的にしか覚えていない。ただ、冷たい雨の中、優しい手が彼女を抱き上げ、温かい食事を与えてくれたこと。それが彼女の最初の記憶だった。


 路地を曲がると、中央広場の「勝利の泉」が見えてくる。王国の象徴であるこの泉は、約十五年前に終わった十年にも渡る多種族間の戦争——通称「十年燃灰期」——の勝利を記念して建てられたもの。オルステリア王国が、獣人・エルフ・ドワーフの三国連邦に勝利した証だった。


 リュカの獣耳が痛みを感じるように縮こまる。

 戦争は彼女が生まれる前に終わっていたが、その余波は今も続いていた。表向きには「全種族平等法」が制定され、すべての種族に法的権利が与えられていた。しかし、実際には獣人をはじめとする非人間種族への差別は根強く、そして深く影を落としている。


 だが、養父はリュカを獣人として扱わず、一人の少女として接してくれていた。


 エルベルトは元王宮料理人だった。なぜ王宮を去ったのか、彼は決して語らなかった。ただ「料理は、誰かの心を温めるためにある」と言い、東区の小さな食堂「銀の厨房」を営んでいた。


 彼は獣人であるリュカを実の娘のように育て、料理の道へと導いた。包丁の握り方より先に「鍋の音」を教え、「料理は心で感じるものだ」と諭した。


 リュカは十一歳の時、最年少で調理師二級の資格を取得した。それは決して、エルベルトに促されたわけではなく、純粋に『お父さんと一緒に厨房に立つのが夢』だったから。


 そして二ヶ月前、流行病が王都を襲った。多くの人が命を落とす中、エルベルトも床に伏せた。彼の最期の言葉は料理人になれとも言わず、ただ「好きなように、生きなさい」と。


 それが、彼女への遺言だった。


 リュカの目が熱くなる。けれど、彼女は泣かなかった。悲しくないわけではない。むしろ、胸が張り裂けそうなほど痛かった。だが、泣いたところでエルベルトは戻ってこない。それを彼女は知っていた。


 代わりに、彼女は決意した。エルベルトの遺志を継ぎ、「銀の厨房」を守ること。そのためには、一級調理師の資格を取得しなければならない。それが彼女の選んだ道だった。


 思いに耽りながら歩いていると、目の前に調理師協会の建物が見えてきた。重厚な石造りの建物は、王国の料理界を統括する権威ある場所。その巨大な扉を前に、リュカの小さな体が一瞬すくんだ。

 入口では、調理師協会の制服を着た男性が受験者の身分証を確認している。


「……大丈夫。お父さんが教えてくれたことは、全部覚えている」


 彼女は静かに自分に言い聞かせた。獣耳が再び前を向き、翡翠色の瞳に決意の光が宿る。

 リュカは恐る恐る近づき、自分の二級調理師証書を差し出そうとした時だった。


「おい、獣人。何のつもりだ?」

「わ、私は…調理師一級試験を受けに来ました」


 リュカは小さな声で答えた。男の表情がさらに厳しくなる。


「冗談じゃない。獣人が一級を? しかも子供が? 付き添いはどこだ?」

 リュカの声は小さいが、しっかりとしていた。


「年齢は?」

「十三歳です」

「十三で二級持ちだと? 冗談じゃない」

「どこの店の子だ?」


 男はリュカの証書をじっくりと見た後、リュカの顔に眼を向ける。


「これは本物のようだが……付き添いはおらんのか」

「いいえ、一人です」


 リュカの言葉に、警備員は不審そうな目を向けた。


「頭巾を取れ。身分を確認する」


 その言葉に、リュカの体が硬直した。頭巾を取るということは、獣耳を露わにするということ。それは時に、予測不能な反応を招くことを、彼女は経験から知っていた。


「そ、それは……」


 リュカの声が震え始める。心臓が早鐘を打ち、呼吸が荒くなり始めた。頭巾に手をかけたが、それ以上動かせない。恐怖が全身を支配し始めていた。


「何を隠している? さっさと取りなさい」

 男の声が厳しさを増す。リュカの視界がぼやけ始め、過呼吸の兆候が現れ始めた。


「はっ……はっ……す、すみません、少し…息が…」


 周囲にいた人々の視線が集まる。リュカの獣耳が痛みを感じるように低く垂れた。彼女は無意識に獣耳を両手で隠そうとする。


「身分を明かせ! ここは中央区だぞ。東区のゴミが紛れ込むところじゃない」


 男の言葉に、リュカの胸が締め付けられた。息が詰まり、言葉が出てこない。過呼吸を起こしそうになる。

 そんな彼女の耳に、別の声が届いた。



「おや、君も受験生かい? 早く中に入ろう」



 澄んだ、しかし芯のある声。リュカが顔を上げると、そこには金色の髪を一部後ろで束ねた、青年が立っていた。端正な顔立ちと気品ある佇まい。銀青色の瞳が優しく彼女を見つめていた。


「何をしている? この獣人は——」

 男が言いかけたところで、青年は静かに言葉を挟んだ。


「受験には、二級の資格を持っていれば年齢や性別、ましてや種族なんて制限はないはずじゃないか? もしそれを破るというのは国王の名を持って交付された『全種族平等法』に背くことじゃないかな?」


 その言葉に、男は言葉を詰まらせた。青年はリュカの方に向き直り、小さく微笑んだ。


「はは、緊張してるね。大丈夫、みんな初めは緊張するものさ。さあ、一緒に入ろう」


 彼は自然な仕草でリュカを促した。彼女は戸惑いながらも、この初めての味方に小さく頷いた。男は歯噛みをしながらも、二人を通した。


「ありがとうございます……あ、あのお名前は?」

 リュカが小さな声でお礼を言うと、青年は明るく笑った。


「アレクシス・レオナード——アレクと呼んでくれ。僕も今日は受験生なんだ。お互い頑張ろう」

 彼の笑顔には、なぜか太陽のような暖かさがあった。リュカの獣耳が少しだけ上を向き、緊張が少し和らいだ。


 二人は調理師協会の大きな扉をくぐり、受付へと向かった。リュカはまだ信じられないような気持ちだった。この青年——アレクとはどんな人なのか。なぜ見知らぬ獣人の少女を助けてくれたのか。



 彼女はまだ知らなかった。この出会いが、彼女の人生を、そして王国のゆらぎとなっていくことになるとは。



 朝の光が差し込む試験会場で、リュカの新たな一歩が始まろうとしていた。


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