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最終話:あの日の約束


 試験が終了した夜。東区は深い静寂に包まれていた。


 街灯の淡い光が石畳を照らし、遠くで夜警の足音が規則正しく響いている。月は中天に昇り、雲間から漏れる銀色の光が街全体を柔らかく包んでいた。『銀の厨房』の看板は、その月明かりを受けて静かに光っている。


 リュカは重い足取りで店の扉に向かった。鍵を開ける手が、わずかに震えている。それは疲労からではない。今日一日で経験したすべての感情──喜び、恐怖、感動、そして希望──それらが混ざり合い、心の奥で静かに波打っているからだ。


 扉を開けた瞬間、馴染み深い香りが彼女を迎えた。木のぬくもり、僅かに残る香辛料の記憶、そしてエルベルトがここで過ごした九年間の思い出が染み付いた、この場所だけの特別な匂い。


 リュカは深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。ここに帰ってきた。自分の居場所に。


「お父さん……ただいま」

 小さな声が、静かな厨房に響いた。


 彼女は奥の祭壇に向かい、エルベルトの手記の前に膝をついた。蝋燭に火を灯すと、温かな光が彼女の疲れた顔を照らし出す。獣耳は安堵で自然に垂れ、一日中張り詰めていた緊張がようやく解けていく。


「調理師一級に合格しました……」


 今日の記憶が、鮮明に蘇ってくる。妨害を受けた時の屈辱。それでも諦めずに包丁を握った手。

 そして──


「そして……すごい方に出会いました」


 リュカの獣耳が、少しだけ前を向いた。アレクシスの姿が、心の中に浮かんでくる。


「アレクさんという方で……その人も、お父さんの料理に憧れていました。十二年前に食べた、お父さんの料理を、今でも覚えているって」


 彼女の声が温かくなった。まるで、離れ離れになった家族との再会を喜ぶような、そんな安らぎが込められている。


「……その方は私の料理を信じてくれました。お父さんがいなくなって、こんなに心強い味方ができるなんて思ってもいませんでした」


 蝋燭の炎が揺らめく。リュカは手記を胸に抱いた。


「……お父さんが『好きなように、生きなさい』と言ってくれた時、正直に言うと、何が好きなのかわからなくて怖かったんです」


 彼女の声が小さくなる。心の奥に隠していた不安を、ようやく言葉にできた。


「でも今は、はっきりとわかります。私は料理が好きです。お父さんと一緒に過ごしたこの厨房で、お父さんが教えてくれた料理を作ることが、何よりも好きです」


 獣耳が決意を示すように立った。


「そして……いつか、誰もが当たり前に『美味しい』と言ってくれる日が来るまで、私は料理を作り続けます」




「だから、お父さん安心してください。今、私は好きなように生きています」




 リュカは立ち上がり、調理台へと向かった。今日使った包丁を手に取り、丁寧に研ぎ始める。「シャッ、シャッ」という規則正しい音が、静寂を破って響いた。それは彼女にとって、心を落ち着かせる大切な儀式。明日への準備。


 研ぎ終えた包丁を丁寧に拭き、元の位置に戻す。

 エプロンを外し、壁に掛ける。

 明日の朝、また新しい一日の始まりと共に、このエプロンを身に着ける。


 蝋燭を消そうと手を伸ばした時、外で馬車の音が響いた。


 リュカの獣耳が音に反応してぴくりと動く。深夜の東区で馬車の音を聞くのは珍しいことだった。しかも、その音は王宮方面から来ているようだった。


 窓に近づくと、格式高い馬車が『銀の厨房』の前をゆっくりと通り過ぎていく。一瞬だけ速度を落とし、まるで店を確認するように──そして再び音もなく夜の闇へと消えていった。


「……?」


 リュカは首をかしげたが、深く考えることはしなかった。きっと道に迷った貴族の馬車だろう。

 こんな東区に用事がある人なんて、いるはずがない。


 蝋燭を消し、静寂が戻る。月明かりだけが、祭壇のエルベルトの手記を静かに照らしていた。

 リュカは二階の自室へと向かう。階段を上がりながら、今日という日の重みを改めて感じていた。


 調理師一級合格。

 アレクシスとの出会い。

 そして、自分の未来への確信。


「おやすみなさい、お父さん」


 最後の言葉をエルベルトに向けて呟き、彼女は部屋へと消えていった



◆◆◆◆◆◆



 深夜の王都を、格式高い馬車がゆっくりと進んでいく。


 馬車の中で、アレクシスは窓の外を見つめていた。

 彼は『銀の厨房』をこの目で確認するために馬車を走らせていた。


 そして中央区から東区へと景色が変わっていく。華やかな装飾から質素な石造りの家々へ。

 通りも狭くなり、街灯の光も暗くなる。


 ──ここで、彼女は一人で生きている。


 アレクシスの胸の奥で、先ほどの決意がさらに固まっていく。

 純粋に、真摯に、誰かのために料理を作り続ける少女。

 それなのに世界は、彼女を受け入れようとしない。


 ──僕は、この歪んだ世界を変える。


 やがて『銀の厨房』が見えてきた。小さな建物だが、窓からは温かな蝋燭の光が漏れている。


「速度を落とせ」


 アレクシスが御者に指示を出した。馬車は『銀の厨房』の前でゆっくりと速度を落とす。


 蝋燭の光に照らされた店内で、リュカが包丁を研ぐ姿がかすかに見えた。

 その小さな背中は、今日一日の疲れを感じさせながらも、どこか安らいでいるように見えた。


 ──彼女は、あの場所で料理を作り続ける。


 馬車がゆっくりと通り過ぎていく。アレクシスの銀青色の瞳には、もはや感情が宿っていなかった。代わりに、機械のような冷静さが支配している。


 ──まずは、情報を集めよう。この王国の権力構造、商業の仕組み、そして種族間の政治的力学。


 馬車が王宮へと向かう中、アレクシスの頭の中では既に計画が動き始めていた。


 ──感情では何も変わらない。論理と戦略で、仕組みそのものを変える必要がある。


 その夜、アレクシスの部屋の明かりは朝まで消えることがなかった。机の上には王国の法律書、商業に関する文献、種族問題の研究資料が山積みにされていた。



 ──三年。三年あれば、基盤を作れる。



 ペンを走らせながら、アレクシスは計画していた。

 ──まずは商会、料理協会、あらゆる組織を利用する。種族共存を建前に、実際の力を蓄積していかねばならない。


 彼の手が止まらない。ページを埋めていく文字は、すべて冷徹な戦略だった。


 ──そして第十一公子という立場を活用し、改革派の貴族たちを味方につける。

 アレクシスの瞳に、異様な輝きが宿った。



 ──彼女が笑える世界を作るためなら、僕は何でもする。

 ──たとえそれが、彼女自身を巻き込むことになっても。



 一人の少女が希望と共に眠りにつき、もう一人の青年が歪んだ野心を抱いて夜を徹する。その対比は、やがて王国全体を巻き込む大きな変化の予兆だった。


 東区には温かな残り香が漂い、王宮の一室には冷たい計算が渦巻いている。


 月は静かに西へと傾き、新しい夜明けが近づいていた。


▶︎エピローグまで続きます!

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