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第10話:料理人としての道、歪んだ理想

 筆頭審査員が会場の中央に立ち、静かに書類を開いた。

 張り詰めた空気が会場を支配し、受験者たちの呼吸音さえも聞こえなくなるほどの静寂が訪れた。


 リュカの獣耳が緊張で前に立った。小さな手が、無意識にエプロンの裾を握りしめる。隣に立つアレクシスの姿が視界の端に映る。彼は表情を変えずに立っていたが、拳がかすかに震えているのに気づいた。


「調理師一級試験、合格者を発表いたします」

 心臓が早鐘を打つ。血の巡る音が耳の奥で響いていた。


「受験番号七番、受験番号十五番……」


 番号が読み上げられるたび、歓声と落胆のため息が交互に響く。リュカは息をすることも忘れて、ただじっと待っていた。


「受験番号四十一番」

 一瞬、自分の番号だと理解できなかった。


「リュカ・ヴァレン」

 名前が呼ばれて、ようやく現実として認識した。


「筆記試験は合格ラインぎりぎりでしたが、実技試験はほぼ満点でした。総合評価により合格といたします」

 会場がざわめいた。驚きと、困惑と、そして一部からは明らかな不満の声が漏れる。


「獣人の子供が……」

「しかも実技がほぼ満点だと?」


 リュカは複雑な気持ちを抱えながら、ぐっと唇を噛みしめた。嬉しさと安堵、そして現実の重さが同時に押し寄せる。それでも背筋を伸ばし、前を向いた。


 ──お父さんが守ってきた『銀の厨房』を、これからも続けていける。


「受験番号四十二番、アレクシス・レオナール」

 隣でアレクシスの名前が呼ばれた。


「筆記、実技ともにほぼ満点。特に魔素入り香辛料の扱いは、歴代の受験者でも類を見ない完璧さでした」


 拍手が起こった。リュカへのそれよりも明らかに大きく、温かい。

 その違いに、彼女の胸が小さく痛んだ。


 アレクシスに向けられる称賛の視線と、自分に向けられる警戒の視線。

 その対比が、現実を突きつけていた。


 筆頭審査員は他の合格者の名前も読み上げていった。

 結局、合格したのは五十名中わずか八名。その厳しさに、改めて一級試験の重みを感じさせた。


「以上で発表を終了します。合格者は後日、正式な認定証が交付されます」


 審査員たちが退場すると、会場内は一気に騒がしくなった。

 合格者たちは互いに祝福し合い、不合格者たちは肩を落として会場を後にしていく。


 しかし、リュカの周りだけは違っていた。


 誰も近づこうとしない。祝福の言葉もない。

 ただ遠巻きに、好奇と警戒の視線だけが向けられていた。


 ──やっぱり、そうなんだ。


 リュカは小さく息をついた。合格しても、現実は変わらない。

 獣人の子供が一級調理師になったという事実は、多くの人にとって受け入れがたいものなのだろう。


「おめでとう」


 その中で、アレクシスだけが自然に声をかけた。

 振り返ると、彼の銀青色の瞳には心からの祝福が込められていた。


「はい……ありがとうございます!アレクさんも、おめでとうございます」


 リュカは小さく微笑んだ。それは今日一日で、初めて見せた本当の笑顔だった。



◆◆◆◆◆



 二人は会場を後にし、中庭のベンチに腰を下ろした。

 夕暮れが近づき、オレンジ色の光が石畳を優しく照らしている。噴水の水音だけが、静かな空間に響いていた。


 リュカはベンチに座ると、ようやく緊張の糸が切れたように深く息をついた。隣に座るアレクシスは、じっと空を見上げている。その横顔には、普段の余裕が消えていた。何か重要なことを考えているような、真剣な表情。


「実は、休憩の時に話そうとしていたことなんだけど……」


 アレクシスの声に、リュカは顔を向けた。

 彼の声には緊張したような、それでいて決意を込めたような響きがあった。


「はい……」


 リュカの獣耳が、好奇心を示すようにわずかに前に向いた。

 アレクシスは少しの間、言葉を探すように黙っていた。そして、ゆっくりと口を開いた。


「十二年前、僕がまだ七歳の時のことだ」


 彼の銀青色の瞳が、遠い記憶を辿るように細められた。


「王宮で、一人の料理人に出会った。短く刈り込んだ髪、日に焼けた肌、短く後ろ髪をまとめた髪型。そして……腕には古い傷跡があった」


 リュカの体が、ぴくりと反応した。

 ──まさか……


「その人は、他の宮廷料理人とは違っていた。荒々しい雰囲気で、でも作る料理は……」

 アレクシスの声が震えた。彼の手が、無意識に胸の辺りを押さえている。


「生まれて初めて、世界に色が付いたような気がした。ただの『一皿のまかない』のような料理だったのに、口に入れた瞬間、胸の奥が熱くなって……」


 リュカの翡翠色の瞳が大きく見開かれた。

 彼女の獣耳は完全に前を向き、全身でアレクシスの言葉を受け止めていた。


「その人は言った。『料理は言葉より雄弁だ』って」


 その瞬間、リュカの呼吸が止まった。

 ──お父さんの、口癖。


「でも、その人は戦場へ行ってしまった。獣人の復権派鎮圧のために。それきり、会うことはなかったけど」


 アレクシスは振り返り、リュカを真っ直ぐ見つめた。その瞳には、深い確信が宿っていた。


「今日、君の料理を見て食べて、確信した。君が言っていた『お父さん』は、きっとあの人ではないかと……」


 リュカの目に、涙が浮かんだ。しかし、彼女はそれを決して流さなかった。ただ強く瞬きをして、震える声で答えた。


「はい……おそらく、お父さんだと思います」

 声は震えていたが、最後まで堪えきった。


 ──お父さんは、こんなところにも足跡を残していたんだ。


「……僕は、彼に憧れているだけの料理人だ。彼のような料理は、まだ作れない。直接、料理を教わったわけではなく、ただただこれまで彼の後を追い続けた」


 その言葉に、リュカは何か違和感を覚えた。

 アレクシスの瞳の奥に、もっと深い何かが隠されているような気がしたが、それが何なのかは分からなかった。


「僕と違って君はちゃんと彼の……エルベルトさんの系譜をついでいるんだね」


 二人の間に、静かな理解が流れた。

 同じ人物から、それぞれ違う形で影響を受けた二人。

 その縁が、今日この場所で交差した。


「今日、私は改めて思い知りました」

 彼女の声は静かだったが、その奥には確かな決意が宿っていた。


「……もしアレクさんがいなければ、私の料理を見てもらうことすらできなかった」

 小さな拳を握りしめる。その力の入れ方に、彼女の悔しさが表れていた。


「お父さんは『料理は言葉より雄弁だ』と言っていたけど……」

 彼女は唇を噛んだ。


「現実は、獣人の私の料理を食べてもらうことすら難しいんだと……」


 その言葉を聞いた瞬間、アレクシスの表情が変わった。


「……………」


 リュカは彼の変化に気づいた。

 いつもの穏やかな表情が消え、目の奥に何か激しいものが宿っている。拳が震え、呼吸が浅くなっているのが分かった。


 まるで、彼の中で何かが燃え始めたかのような、そんな気配を感じた。

 夕陽が建物の向こうに傾き始め、二人の影を長く伸ばしていた。


 アレクシスは立ち上がり、リュカに向き直った。

 その動作には、今までにない激しさがあった。


「リュカさん」

 彼の声には、今までにない真剣さが込められていた。

 いや、真剣というより、何か切迫したような響きがあった。


「それは、間違っている」

 アレクシスの声が熱を帯びた。その激しさに、リュカは少し驚いた。


「……料理は、料理として評価されるべきだ。作った人の種族や年齢なんて、関係ないはずだ」

 リュカは静かに首を振った。


「ありがとうございます……。でも、それが現実です」

 彼女の声は諦めではなく、受容だった。




「私は獣人だから……」




 その瞬間、アレクシスの顔が歪んだ。



── ── ──


 『私は獣人だから』。その彼女の言葉を聞いたアレクシスの中で何かが蠢いていた。

 ──なぜだろう。胸が、痛い。


 彼は自分の胸に手を当てる。鼓動が激しく、呼吸が浅くなっている。

 ──彼女の姿を見ると、胸が締め付けられるような苦しさがある。


 諦めたような微笑み。

 決して涙を流さない強さ。

 そして、その奥にある深い悲しみ。


 それらすべてが、彼の胸を締め付ける。

 ──これは……何だ?


 七歳から感じたことのない、激しい感情の渦。

 それは怒りとも違う、もっと深く、もっと切実な何か。


 ──『料理は、言葉よりも雄弁だ』

 エルベルトの言葉が脳裏に響く。七歳の自分に世界の色を教えてくれた、あの言葉。


 ──でも、それは嘘だ。

 アレクシスの拳が震えた。


 ──彼女の料理がどれほど雄弁でも、『獣人だから』という理由で、その言葉すら聞いてもらえない。

 目の前のリュカは、諦めたような微笑みを浮かべている。それが当然だと受け入れているかのように。


 ──おかしい。狂っている。

 アレクシスの胸の奥で、何かが燃え始めた。それは怒りだった。純粋で、激しい怒り。

 ──僕にとって料理は、灰色の世界で、唯一色を感じられる場所だった。


 彼の呼吸が荒くなる。

 アレクシスは自分の手を見つめた。

 完璧な技術を持ち、魔素すら制御できる手。でも、それが何だというのか。


 ──彼女の料理は、僕の百倍も千倍も雄弁だ。それなのに……

 ──獣人だから、料理を食べてもらえない? 獣人だから、心を通わせることすらできない?


 アレクシスの視界が歪んだ。涙ではない。怒りで、世界が揺れているのだ。


 ──こんな世界は、間違っている。

 その瞬間、アレクシスは自分の思考に困惑した。


 ──僕に「正しい」と「間違い」を判断する基準なんてあったか?


 物心付いたころから、世界は灰色だった。

 まるですべてに灰がかぶったように。

 色も、温度も、意味も失われていた。

 善悪も、美醜も、正義も不正も、すべては灰の下に埋もれた無意味な概念でしかなかった。

 

 なのに今、確信を持って「間違っている」と断言している自分がいる。

 ──おかしい。僕がおかしい。僕が間違っている。


 アレクシスは自分の胸を押さえた。心臓は激しく脈打っているのに、その理由が分からない。


 ──僕が、なぜ怒っている? なぜ苦しい?

 彼の中で、何かが軋みを上げて歪んでいく。


 ──そうか、分かった。

 アレクシスの唇が、不自然に歪んだ。笑顔とも、苦笑とも違う、壊れた表情。


 ──僕が間違っているんじゃない。この世界が間違ってるんじゃない。

 ──この世界がそのものが壊れているんだ。


 ──彼女は灰の下でも輝いている。豊かな感情を持ち、素材と対話し、料理に心を込められる。それなのに世界は彼女を灰の中に押し込めようとする。


 ──僕はとっくに灰に埋もれている。感情もなく、心もなく、ただ技術だけで料理を作る。それなのに世界は僕が『人間だから』灰の上に引き上げようとする。


 アレクシスの視界が、さらに歪んだ。


 ──ああ、なんて滑稽な世の中なんだ。


 彼の中で、狂気にも似た確信が生まれていく。


 ──灰に埋もれた僕が評価され、輝いている彼女が灰をかぶせられる。空虚な僕の料理が褒められ、魂のこもった彼女の料理が灰の下に隠される。


 ──この『灰かぶりの世界』は、僕よりもずっと壊れている。


 アレクシスは声を出して笑いそうになった。しかし、それは喜びの笑いではない。自分と世界の歪みが完全に噛み合わない、その不協和音への反応だった。


 ──いいだろう。灰に埋もれた僕が、この社会を、この世界を変えてやる。


 ──『灰かぶりの世界』で生きてきた僕だからこそ、できることがある。感情に振り回されず、ただ機械的に、効率的に、この灰を払い除けてやる。



 ──彼女が灰をかぶることのない世界を。

 ──彼女が灰の下に隠されることのない世界を。

 ──彼女が笑える世界を。



 ──たとえ彼女が歩む道に、僕がさらなる灰を撒くことになっても。最後に彼女の料理が、灰の下から光を放てる世界になるなら。それが、灰に埋もれた僕にできる、唯一の『色』のある選択だ。


 アレクシスの銀青色の瞳が、灰色の世界の中で異様な光を帯びた。それは情熱でも、決意でもない。もっと無機質で、もっと純粋な、灰の中から生まれた歪んだ執着の光だった。


── ── ──


 リュカは息を呑んだ。彼の表情に激しい感情が浮かんでいるのを、獣人の鋭敏な感覚が感じ取っていた。怒り、苦しみ、そして何か壊れそうなもの。でも、それはすぐに消えて、代わりに奇妙な笑みが浮かんだ。


「リュカさん」

 アレクシスの声が震えている。それは迷いではなく、何か強い確信によるものだった。


「……君はこれからも料理を作り続けてほしい。誰に何を言われようとも、君が作る料理は本物だ」

 リュカが驚いたように顔を上げた。


「そして僕は……僕は『君が料理だけを考えていられる世界』を作る」

 アレクシスの銀青色の瞳が、夕陽を反射して燃えるように輝いた。でも、その輝きは温かいものではなく、どこか冷たく、執拗な光だった。


「誰もが当たり前に、君の料理を美味しいと言える世界を」

 彼は一歩前に出た。その姿に、リュカは圧倒された。


「君が……最後には笑っていられる世界を」

 リュカは言葉を失った。


「え……?」

 リュカにとって、脈絡のないアレクシスの言葉たちの意味が理解できなかった。

 『最後には』という言葉が特に引っかかる。なぜ『最後』なのだろう?


 彼の表情は真剣そのものだったが、どこか違和感があった。

 まるで、自分自身に言い聞かせているような、そんな必死さが滲んでいた。


 アレクシスは苦笑いを浮かべた。その笑みは、どこか自嘲的で、痛々しかった。


「僕には、エルベルトさんのような料理は作れない」

 彼の声は静かだったが、そこには諦めとは違う、奇妙な決意があった。


「でも、世界なら変えられるかもしれない」


 リュカはその言葉に戸惑った。世界を変える? この人は一体何を言っているのだろう?

 アレクシスの瞳が、一瞬だけ虚ろになった。まるで自分の内側を見つめているような、そんな表情。


「……そうすれば、君が笑って料理を作れるはずだから」

 最後の言葉は、ほとんど独り言のようだった。


 リュカは深く息を吸い込んだ。アレクシスの言葉の真意は分からない。

 でも、彼が自分のために何か大きな決意をしてくれたことは理解できた。


「私も……私も強くなります」

 彼女の声は小さかったが、芯が通っていた。


「いつか、料理だけで認めてもらえるように。心から『美味しい』と言っていただけるように」

 獣耳が決意を示すように前を向いた。翡翠色の瞳に、静かな炎が宿る。


「その時まで……私は料理を作り続けます」


 アレクシスの表情が、一瞬だけ複雑になった。

 まるで、リュカの決意が嬉しいような、同時に何か別の感情も混じっているような。



◆◆◆◆◆



 夕陽が地平線に触れようとしていた。二人の影は一つに重なり、そして離れていく。


「じゃあ、また会おう、リュカさん」


 アレクシスが手を差し出した。


「はい。今度は私が、アレクさんを驚かせます」

 リュカはその手を握った。


 握手を交わした瞬間、リュカは不思議な感覚を覚えた。

 アレクシスの手は冷たかった。まるで、何か大きなものを抱え込んでいるような、そんな震えが伝わってきた。


 でも同時に、その手には確かな決意も感じられた。何かを守ろうとする、強い意志。


 ──この人は、一体何と戦おうとしているの?


 やがて手を離し、二人は別々の道を歩き始めた。


 リュカは何度か振り返った。アレクシスは王宮への道を、まるで戦場に向かうような足取りで進んでいく。その後ろ姿に、言い知れぬ不安を感じた。


 ──『最後には笑っていられる世界』


 あの言葉が、心に引っかかって離れない。

 まるで、その過程では笑えないことが起きるかのような、そんな含みを感じた。


 でも今は、その意味を理解することはできなかった。



◆◆◆◆◆



 東区への道を歩きながら、リュカは今日一日を振り返った。


 調理師一級に合格した。でも、現実は厳しいままだ。

 ──泣きたい。でも泣かない。


 彼女は空を見上げた。一番星が瞬き始めている。

 ──泣いても、何も変わらないことを知っているから。


 でも、今日は少し違っていた。胸の奥に、温かいものが残っている。

 ──誰かが、私のために怒ってくれた。


 アレクシスが審査員に向かって叫んだ姿が、脳裏に焼き付いている。

 ──誰かが、私の料理を信じてくれた。


 『君が笑っていられる世界を』という言葉が、心の中で響いている。その言葉の真意は分からないけれど、彼が本気だったことは伝わった。


 ──だから、私ももっと強くあらなければ。


 明日からまた、新しい日々が始まる。一級調理師として、そして一人の料理人として。


 軽蔑も侮蔑も、きっとなくならない。

 でも、今日出会ったアレクシスという青年が示してくれた可能性を信じて、彼女は前に進んでいく。




 ──いつか、本当に料理を心から『美味しい』と言ってもらえる日が来ることを信じて。



 リュカはまだ知らない。

 アレクシスの言葉の奥に潜む、灰色の世界のことを。

 彼が抱える空虚と、それゆえの歪んだ決意のことを。


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