第0話:アレクという名の青年
オルステリア王国——王宮東棟、第十一公子の居室。アレクシス・レオナード=オルステリアは早朝から起き出し、特別な準備を整えていた。彼の部屋には王族らしい豪奢な調度品の代わりに、料理書が整然と並ぶ本棚と、実験用の小さな調理台が置かれていた。
アレクシスは鏡の前で金色の髪を整え、少し長めに伸ばした前髪を指でかき上げた。銀青色の瞳が鏡に映る自分を見つめ返してくる。彼はいつもの宮廷衣装ではなく、上質だがシンプルな服を選んでいた。そして、後ろ髪を短くまとめたのは、アレクシスにとって師匠とも呼べる、かつて王宮にいた料理人の系譜だった。
「今日だけは、ただの料理人として扱ってほしい」
彼は侍従のネルソンに告げる。ネルソンは渋い表情をしながらも、黙って頷いた。
「アレクシス様、どうしても受験されるおつもりですか? 陛下と王太子様はご不快に思われることでしょう」
「いいんだ、ネルソン。僕は本物の料理人になりたいんだ。ただの飾りでは満足できない」
アレクシスの声には、若さにも関わらず芯の強さがあった。
十九歳の彼は、王族でありながら料理の道を志していた。いや、王族だからこそ、その特権を使って本当の料理の力を世に広めたいと願っていた。
「今日は『アレク』と名乗る。それだけでいい」
ネルソンは深いため息をついたが、反論はしなかった。
十一番目の公子は、生まれた時から「変わり者」だった。料理に魅せられ、たびたび王宮の厨房に忍び込んでは料理人たちと肩を並べ料理する。王族の中でも異質な存在だった。しかし、彼の志の高さと優れた才能は、周囲も認めざるを得なかった。
アレクシスは最後に小さな香辛料の入った革袋を取り、上着の内ポケットに忍ばせた。それは彼がひそかに研究していた特殊な香辛料で、古い文献にだけ記された失われた調合法によるものだった。
「それでは、行こうか」
彼は決意を固め、王宮を後にした。今日こそは「本物の料理人」として認められる一歩を踏み出すつもりだった。
宮廷料理人の指導を受け、王立料理アカデミーの知識を得た彼は、技術的には申し分なかった。しかし彼の心には、まだ満たされない思いがあった。料理というものの本質、王国中の人々の心を動かす力——その真髄をつかみたいという渇望が彼を突き動かしていた。
中央区の調理師協会に向かいながら、アレクシスの目は遠くを見つめていた。彼の心の中には、理想とする王国の姿があった。種族の違いを超えて、すべての者が平等に暮らせる世界。そして、その橋渡しとなるのが料理だと、彼は信じていた。
「料理は最も公平な芸術だ。美味しいものは、種族を問わず誰の心も動かす」
彼はそう呟きながら、調理師協会の重厚な扉へと歩みを進めた。今日は「アレク」という一料理人として、己の技術だけを頼りに試験に臨むつもりだった。
そして彼はその時、まだ知らなかった——今日という日が、運命の分岐点となることを。獣人の少女との出会いが、彼自身の人生をも大きく変えていくことになるとは。
中央区の朝の陽光が、アレクシスの金色の髪を輝かせながら、調理師協会の建物全体を包み込んでいった。




