第85話 深紋
授業が開始してからもうすぐ三時間半が経過しようとしていた。学府全域に影を落とすほどの超巨大な術水球を頭上に、柊先生の講座は続く。
「術水に関して今日覚えて帰って欲しいことは三つだ。うち、二つは先に説明したことだ、輪慧、一つ目は?」
柊先生が話を振ると、輪慧は特に迷うことなく答えた。
「硬きは当たり砕け、柔らかさは受け流す」
「そう。術水の性質を理解する上で、硬きと柔らかさに関するこの言葉は必修だよ。そしてもう一つあったね。澪、なに?」
続いて柊先生は澪に話を振る。
「粗雑なものは脆さを隠し、精緻なものは壊れる筋道さえも形の一つである」
澪も輪慧同様、特に迷うことなく回答した。
「そうだね。強靭たる術水は単体で使用するとどこが壊れても気が付かないが、それを用いて構築した術印は形が整っているから、壊れてしまえばより際立ってしまう。これも大切だ」
柊先生が話をまとめ上げる。俺らはまずその二つを理解しようと頭を働かせていた。
「そして、三つ目。これが今日、特に覚えて帰って欲しいことだ」
俺らは揃って柊先生を見る。
心なしか、柊先生の表情がいつもと違って真面目に見えた。それをみんなが悟ったか、先ほどまでに増して背筋を伸ばし、話を聞く用意をした。
「賢術師各々が発する術水は、みんな同じように見えて、実は一人一人が違うんだ。何百、何千といる賢術師は、全員が異なる術水を持つ」
「全員が違う……?」
「そ。例えば、俺を含めてこの場にいる五人の賢術師、各々が持つ術水は全て違う。各々に微妙に違った特有の波長があるんだ。その波長を、深紋と言う」
初めて聞いた。
つまり、俺が扱う術水、他のみんなが扱う術水にも皆異なる深紋があると言うわけだ。
「深紋は主に、他者への術水による直接的な影響の大きさのことを指す。他者に影響を与えることのない第拾深から、世界に直接影響を与える最高位の第零深まで、合計一一個の深紋があるんだ」
拾、玖、捌から参、弐、壱、零と言った感じか。それにしても何千規模でいる賢術師を、果たして一一個ほどの深紋で分けられるものなのか。
まぁ、同じ深紋同士の賢術師で臨機応変にわけていると言った具合か。
「他者に与える影響の大きさで深紋を……ん?魔術骸へ与える影響じゃなくて……ん?」
輪慧がわからないと言った風に首を捻る。
「ちなみに俺は、第零深。具合としては、世界に直接的な影響を与えるほどのレベルだ。遥希、稔が死んだあの夜のこと覚えてるかい?」
視線を俺に向け、柊先生は俺に問う。
「……はい。覚えています」
「あの時、俺が駆けつけて、稔に蘇生できる可能性を実現すればいいのに、とか思わなかった?正直に答えていいよ」
あの夜のことを思い出す。
確かに口に出さなかっただけで、そんなことも思っていた記憶がある。深刻そうに対処する柊先生と圭代先生の間に口を挟んではいけないと思い押し殺していたのだが、今になってそれを話題に出すと言うことは、やはり柊先生が直接助けなかった理由があると言うことか。
「正直、思っていました」
だろうね、と言った様子で柊先生は頷く。それから、話を続けた。
「深紋が四段階以上離れている両者の場合、高い方の術水を低い方が受けると、高い方の術水が強すぎるあまり、低い方にとっては強烈な毒となる」
「えっ……」
思わず目を見開いた。
柊先生の術水が強すぎるあまり、それに到底達していない稔先輩の身体は耐えられない。
だから、柊先生は直接稔先輩を助けることは出来なかった——いや、待て。
その場合、一つ疑問が生じる。
「で、でも、先の実技試験の時、柊先生は僕と希空のことを術水で浮遊させて……」
柊先生に質問しようとすると、数瞬早く、話を聞いていた輪慧が疑問を呈した。聞きたいことは俺も同じだったためそれ以上は口を閉ざす。
輪慧の質問を受け、柊先生が答えた。
「使用する術印の難度や術水の放出量によって、深紋の影響は比例して変わるんだ。だから逆に言えば深紋が最大値である俺でも、他人を浮遊させるくらいの簡単な技術、また、ごく僅かな量の術水放出なら、深紋に依存した影響は現れない」
深紋とは、その者の術水が他者に直接与える影響を段階化したもの。あるいは、賢術師各々の扱う術水にみられる特徴的な波長のことだ。
少量の放出なら深紋は真価を発揮せず、即ち他者にも一切の影響を与えないのだろう。
「でもあの時、稔を救うためには、俺は《顕現印》にて多くの術水を消費し、さらに死んだ人間を蘇生させる可能性を実現せねばならない。当然、そんな可能性を実現するのは俺とて並大抵の術式運用で成せる業ではないのは分かるよね」
多量の術水放出、術者である柊先生が並大抵のことでは実現できぬ可能性——深紋の真価が発揮され、その影響を稔先輩が被る条件は満たしていると言えるだろう。
「ちなみに、稔先輩の深紋は……」
「稔含め、二年はみんな第漆深に位置する。身体的成長、精神的成長、術水技術の向上など、本人の様々な成長が総合的に深紋の段階昇華に繋がる。勿論、俺みたいに最初から深紋が第零深に近い指折の賢術師もいるけどね」
深紋が四段階以上離れていれば、高い方の術水は低い方に対して毒となる。
柊先生が最高位の第零深なら、その影響を受るには最低でも第肆深はなければならないと言うわけか。
「これが、今日教えたいことの三つ目。深紋については俺が異常すぎるだけで、四段階以上も離れてるなんてことはほぼない。圭代さんだって第伍深で、『万』で俺を除いて一番段位が高い理事長でも第肆深だ。ちなみに、みんなは一律で第捌深に認定されてるってことだけ伝えておくよ」
深紋が真価を発揮した理事長の術水による直接的な影響でもギリギリ受けられる程度だ。
柊先生だけ、なぜそこまで逸脱しているのかは察せるところもあるが、これまで先輩や先生方が深紋について話しているのを聞いたことがないことから予測するに、先輩や先生方もそこまで気にしてはいないのだろう。
「なんで、柊先生だけ最高位?の第零深なんですか?」
手を上げて、ふと希空が問う。
「知りたがるねー、じゃ、特別に教えちゃおっかなっ」
そう言うと、柊先生は指を三本立て、続いて逆の手でもう一本指を立てた。合計四本だ。
「プラスでもう一個知識を授けよう。深紋の段位は、その賢術師が扱う術印と深い関わりがあるんだ。正確には、術印の錬成度、その腕前による影響が強い。あるいは、術印の極地に至れば限りなく第零深にも達するほどだろう」
柊先生がどれだけ逸脱した存在かがわかる。
とは言え、圭代先生や理事長ですら第伍、第肆深に留まっているのなら、その段位を昇華させるのは並大抵のことではないのだろう。
あるいは、柊先生が忌み子であることも関係しているのかも知れない。
「わかったかな?」
結構な情報量を二〇分弱で叩き込んだせいか、皆苦い表情をしながら話を聞いている。
それ以前も三時間もの間、身体を肉体的にも思考的にもフルに動かしていたため疲労は相当なものだ。術水もとっくに枯渇しきっており、先ほどから今まで感じたことのない倦怠感を覚えている。
枯渇するまで術水を使用すると、こうなるのか。まぁ、文字通りうちに秘めたエネルギーを搾り出しているのだから当然と言えば当然だな。
「よし、一旦気を取り直そう」
仕切り直しと言った風に柊先生が手を叩く。
「無事にあの術水球を破壊するための核も見つけられたことだし。ほら、あとはこの《顕現印》を破壊すれば、あの術水球は瞬く間に瓦解するよ」
そうだ。術水球破壊鍛錬というのだから、あの術水球を破壊せねば授業は終わらない。
「みんな術水枯渇してるっぽいし、希空に代表して壊してもらおう」
「わ、私ですか……?」
「そ。みんなの顔見てみ」
希空が俺ら三人の顔へ視線を流す。
明らかに目を細くして怠そうな澪。
限界と言った様子で肩を落とす俺。
……と、目を点にしながら溶けそうな輪慧。
「後処理、よろしく」
澪の言葉に、希空が答える。
「仕方ないわね。《戯憑印》——」
希空が正面に《戯憑印》を展開する。そこから溢れんとする術水が瞬く間に希空の全身を包み込んだ。そして次の瞬間、希空の全身を包み込む術水が希空の胸の前に収束する。
「四式、[憑填弾]っ!」
収束した術水が象るのは、薄薔薇色の砲台だ。そこに、さらに術水が取り込まれ、一発の砲弾を装填した。
「射出っ!」
柊先生の掌の上に《顕現印》が乗っているというのに、構わず希空は、胸の前の砲台に宿る全エネルギーを容赦なくぶっ放した。
「の、希空っ!ま、待っ——」
案外至近距離でぶっ放された砲弾が柊先生の掌の上に着弾し、同時に大爆発を引き起こした。
それらしい理由付けと言えばそうかもしれませんが、実は前々から考えていた設定ではあるのです——