〜第三章プロローグ〜 賢術三座王
五五五〇年前。
深賢樹海。
妙な藍色の果実が枝先に静かに芽吹く大木。それが何本も連なり、深き樹林を形成していた。
鬱蒼とした樹海を木々の一本も余さず包み込むのは、周囲の環境ゆえに多方面から流れ込んでそこに滞留した濃霧だ。
樹林に足を踏み入れた瞬間、数歩先の地面すら視界に捉える事を許さぬこの深き木々の狭間に、一際強き輝きを放つ閃撃が迸った。
「酷く衰えたな、第二左座」
身に着ている深紫のローブに銀の縁取りが施され、円状に連なる三つの城の模様のバッジを胸元に付けた男が、正面の術印に術水を注ぎながら言った。
濃霧を掻き分け悠然と歩くその男の見下す先の地面には、彼と同じローブとバッジを身に着用したもう一人の老紳士が倒れていた。
「なぜ……なぜなのだ、與縫……」
「良い加減座を譲るのだ、舞乙左座。歴戦の古傷に老体を蝕まれ、在りし日の逞しきあの背中は、よもや見る影もない。オレもじきに戻らねばならぬ。遺言くらいは聞いてやらん事もない」
倒れ伏した老紳士に冷たい視線を突き刺す彼は、正面に描いた、雷と火を纏う術印に術水を注ぎ直後それを唱えた。
「《雷火印》、二式——」
ゆらゆらと燃え、バチバチと轟く雷火が溢れんばかりの輝きを放つ。
「……断じて看過出来ぬぞ、この罪は……私が死のうものならばお前もその座を奪われ、咎はやがてその身に断罪を下すだろう……罪を連ねる様な真似は止めるのだ……」
分かってくれと懇願せんとばかりに、倒れ伏しながら精一杯言葉を紡ぐ老紳士。
一方、それに気も留めない男は舌打ち、老紳士の言葉を一蹴した。
「[修羅吼爪]」
術印から溢れ出た雷火が、その男の右腕に一瞬で収束した。先ほどまでの術印同様に、ゆらゆらと火が立ち込め、その根幹を幾度となく雷が迸っていた。
右腕に纏う雷火が男と老紳士の周囲の濃霧を寄せ付けぬ。その右腕から放たれる凄まじき術水が、何者も相入れぬ層を成し二人を取り囲んでいるのだ。
「人類の希望にさえ相入れぬ、時代の舞台を降りた老耄など殺したところでものの数にも入らぬ。三座王たちは現在、大厄災たる《悪意の瑕疵》の討滅の筋道を編んでいる最中だ。率直に言うならば、あなたは先の時代には余計な雑駒に過ぎぬ」
男が雷火を纏う爪を突き出すと、老紳士の腰を刺した。瞬間、老紳士の体内に雷火がぶち込まれ、老紳士の全身が震え狂うように痙攣し始めた。
「ぬあああああああああぁぁぁっ!!」
喉が裂けんばかりの甲高い断末魔が樹林に木霊する。
雷火が体の中を駆け巡り、内臓という内臓を焼いているのだ。
「ここで潰えし命は時代の残物。価値なき殺しを咎める愚者も居らぬ。人類の勝利を掴み取るためには、価値なき殺しを実行する事も厭わぬ」
それが大義と言わんばかりの高らかな言葉だった。
全身を引き裂かれ、死をも超越するかのような痛みの中、老紳士は声を絞り出す。
「価値なき者すら守れぬ者に、勝利など飾り名に過ぎぬだろう……強きは守り、弱きは守られ献身する、それこそが勝利への一歩であるとあれほど——」
「理想とは、根幹があれど容易に語れぬ遠きもの。あなたに根付く勝利の形と、オレが語る勝利の形は違うのだ。価値なき者は速やかに淘汰され、ほど遠き理想を叶える礎の一部となる」
顔を顰め、覚悟を決めたような表情で男は言った。
「それが、オレの目指す勝利の未来だ」
次の瞬間、先ほどと同じ一際強い輝きを放つ閃撃が、深賢樹海を揺るがした。
「届かぬものよ、如何に矮小な理想と言えどもな」
***
飛行艦船。
遥か上空を浮遊している円盤型の艦船には、五つの領地が存在し、それぞれの領地を各支配者が統治を任されていた。
正確には四方の領地に囲まれるように残る一つの領地が点在しているような構成となっており、中央には飛行艦船全体の指揮を取る領地、帝郭殿が点在している。
「雅仁。第二右座の姿が見えぬが、何か急を要する事情か?」
中央帝郭殿、賢議の間。
神聖さと広大さを兼ね備えた五つの角を持つ部屋に集まるのは、飛行艦船各領地の統治者たちだ。
部屋の五つの角に設置された椅子に座す彼らだが、集合時間になっても未だ一席だけは空席だった。
「いいえ、如何なる通達も承っておりません。第一右座、第二左座、何か聞いていますか」
「いいえ、私は特に何も」
「第二左座に同じであります」
会話を交わす四名は、飛行艦船各領地の統治及び、最高実権を握る『賢術三座王』と呼ばれる者たちだ。
最高権力。
零王主座、柊征永。
第二権力。
第一左座、柊雅仁。
同じく第二権力。
第一右座、近藤澄斗。
第三権力。
第二左座、千韻舞乙。
そして空席となっているのは、第二右座の座す席。
その席を頬杖をつきながら俯瞰するのは、部屋の深奥に座す零王首座だ。
「かの折の、深賢樹海の動乱との関連性はあるか?」
個人にというわけでなく、他の三名に投げ掛けられた主座の問いに、最初に一言申し上げたのは彼の子息、雅仁である。
「深賢樹海は第二右座の統治する領地ですが、先の動乱にて第二右座が被害を被ったという通達は承っておりません。故に、現在不在である理由は定かではありません」
事実を淡々と述べるように雅仁が言うと、その隣で豪奢な深紅のローブを羽織う男、澄斗が降ろしていた腰を上げた。
「来たらぬ者を憂うなど、それこそ時間の無駄というものよ。殊に主座を待たせるなど、三座王としての価値無きも同然。厳格な処罰を下すのならば、私が直々に下して——」
「良い」
口調を強める澄斗を諫めるように征永が声を発した。
若干の不満を滲ませるが主座には抵抗してならぬと、渋々澄斗は言葉をおさめた。
「時勢により荒事の解消が成されるのなら殊の僥倖。第二右座には忠告のみ行い、後は時勢に任せれば良い。三座王はこれを持ちて、以後の介入を禁ずるものとしよう」
釘刺すように征永が言うも、それに反論する者などこの部屋の中に居ようはずもない。
彼らはただ、それが我らの総意だと言わんばかりに頷くばかりだ。
「議決すべきは、忌まわしき《悪意の瑕疵》討滅作戦の概要だろう。その他二つの《闇渦》の討滅については、第一右座、作戦会議は進んでいるか?」
征永が顔を向けて問うと、澄斗は頷いた。
「《不滅の飢餓》に関しては未だ調査の行き届かぬ点が多くあります。それはその渦の深さと、極めて混ざり乱れた魔術骸の包囲網ゆえ。ですが、《断罪の忘却》に関しては、すでに概要は掴めております」
先ほどのことで若干バツが悪そうだが、冷静に努め澄斗が説明を続けた。
「《断罪の忘却》は比較的浅い。魔術骸の包囲網も他の二つに比べ手薄です。故に、少数の精鋭を向かわせ、狼煙を上げる意味合いも込め、先に討滅すべきかと」
「なるほど」
横で座りながら話を聞いていた老紳士、舞乙が頷きながら口を挟んだ。
「では私の部隊を向かわせよう。懸念することはあるまい。彼らなら渦の浅瀬程度ものの数分で制圧できるはずだ」
「尾翼扉周辺の領地の精鋭か。だが、あそこを手薄にするのはリスクが大きすぎやしないか、第二右座。あそこが敵の手に堕ちることがあれば、闇渦になど構っている暇もなく、この飛行艦船ごと地上へ真っ逆様だ。そこはどう——」
澄斗が疑問を呈そうとしたその矢先だった。
賢議の間の扉が突如開かれた。そこには征永の部下である一人の賢術師が、息を切らして肩で呼吸をしながら立っていた。
「三座王の議会中ぞ。何用だ」
部屋の最奥から征永が扉を開けた部下を視線で射抜いていた。その横で雅仁が言うと、扉を開けた賢術師は報告をする。
「大変失礼いたしました。ですが、三座王の皆様方に急報が御座いまして——」
瞬間、賢術師の頭が背後から銃撃を受けた。
賢術師の頭が前方に血飛沫を飛ばし、霧散する。
「な——!?」
皆がその光景に驚愕する中、頭を吹き飛ばされた賢術師の背後からもう一人の声がした。
「三座王の皆様方におかれましてはご機嫌麗しく。忌まわしき思い、もはや忍び難う御座います。あなたの部下の頭ひとつで、少々話を聞いていただけぬだろうか?」
その男は三座王に対し銃口を向けていた。その銃口の先で、目を見開いて征永が言葉を溢した。
「弾禍の銃腕……」
同時に、激昂するように澄斗が一歩踏み出した。
「不遜の輩よ。ただで済まされるとは思っていまい。貴き賢議の間をあろうことか血で穢した貴様には私が鉄槌を下してやろう」
「威勢が良いのは悪いことではない。だが、それならばとっくに引き金を引いていると言うのが条理だ。さもなくば戦に命を賭す間も無く死に朽ちる。肝に銘じておくのだな」
言葉に反して餓吼影は引き金を引かない。戦意はないと言うことの現れか。
「言葉を慎め痴れ者がっ!」
怒気を込めた一言を言い放つ澄斗に手を翳し、征永は澄斗を納め前へ出た。
「主座……!」
「見ていよ」
澄斗ら三名の前に立ち塞がるように背を向け、征永が餓吼影と真っ向から対峙する。
両者は術水と魔源を放出せぬまま、征永は術印を、餓吼影は長銃を正面に構えた。
「部下の頭ひとつで殺戮が止まるのならば安い交渉よ。貴様を飛行艦船に迷い込ませてしまった時点で、我々は手を引くしかあるまい」
「それはなぜだ?私を殺せば、貴様ら賢術師には至高の利となるだろう」
「理解していながらここへ赴くとは悪戯な男よ」
言葉と共に、征永が術水を放出する。
彼の術水は黒かった。それは瞬く間に賢議の間に充満する。それに抵抗するように、続いて餓吼影が魔源を放出した。
「既に城が揺れている。このまま数分いればここら一帯は広大な更地となるぞ」
餓吼影の忠告とも取れる言葉に、しかし征永は一歩も引かぬ。
「はっはっは、それは大変だ」
両者が放出した術水と魔源は賢議の間で留まることなく、城全体を激しく揺らした。このまま居れば決壊も免れぬだろう。
「ここで私と貴様がやり合うだけで、その余波で飛行艦船を地に落としかねない。それでも、私は貴様を殺すために犠牲を厭わぬ可能性もある」
餓吼影の真意をつくように征永が饒舌に語る。
「かと言う私も、ここで貴様を殺そうとすれば多くの賢術師と築き上げてきた文明を犠牲にすることになる。そこの天秤の具合は私と貴様で異なるとは思うがな」
苦言を呈するように征永がそこまで言うと、餓吼影は魔源の放出を止めた。同時に長銃を背のマントに挟むように仕舞う。
「私一人の犠牲でこの飛行艦船を堕とせるものならば喜んで交戦しよう。だが、私には成さねばならぬことがある。それに、三座王全員を敵に回して勝るなどと驕ってはいない」
「己が可愛さに身を引くか?弾禍の銃腕とまで呼ばれた貴様が」
術水の放出を緩めるも、その視線は依然、目の前の魔術骸を鋭く射抜いている。
「貴様らにも大きなデメリットはあろう。私一人殺すのに飛行艦船を犠牲にするか?それは出来ぬだろう」
互いに利は無かれど、害は見過ごせぬはずだ。つまり両者はここでは争うべきではない。
「三座王の掟を破るわけにもいかない。無益あるいは賢術師に有害な蹂躙は相対すが敵であれど有って為らず——私は手を引くことにする。弾禍の銃腕、貴様はどうする?」
「愚問だ、私も手を引く。うっかり死んでしまっては目的が達成出来なくなるからな」
餓吼影はその場で踵を返す。
つまり、三座王に背を向けたのだ。
「虚を突くならば今のうちだぞ」
「突いて欲しいのか?」
くつくつと喉を鳴らしながら、餓吼影は賢議の間を出た。だが、征永達は誰一人として手を出さない。
征永は言わずもがな、自身の前に立つ征永の決定に二言はないと言わんばかりに雅仁、澄斗、舞乙は事態を静観していた。
「三座王の領地に異変が起きているのか……?」
腕を組み、首を傾げながら舞乙が呟いた。
「深賢樹海での異変に続き、帝郭殿へあの弾禍の銃腕が……」
「他の領域にも厳重体制を敷くべきか。特に尾翼扉周辺、第一左座の領地は狙われ易いだろう。まず危惧すべきはそこが強襲を受けること他ならぬ」
背後の三名が議論を交わす最中、手を挙げて征永が議論を抑した。
「早急に、《悪意の瑕疵》を討ち取る。それが我々に残された道だ。異論はあるまいな」
本日から第三章開幕です。一章、二章と比べ長編になる予定ですので、よろしくお願いします。