第79話 消えゆく黒鳥
筆休めに短めの話を。
柊は空を蹴り、術水の太刀を正面へ突き出した。
刹那、堕雨の表情に僅かな生気が宿る。
「コノ虚空ハ、作リ物ダッタノカモ知レヌナ……」
それまで黙っていた堕雨が、絞り出したような声でそう言った。
「アルイハ夢境ガ、我ニ欲ヲ与エタイタノヤモ知レヌ。我ノ虚空ニ欲ヲ与エシ夢ハ、トウニ枯レ果テタ——」
術水の太刀が、七夢の堕雨の胸の前にある暗赤の術印を突き刺した。
瞬間、その術印は仄かに輝きを放つ。
柊國俊が宿し、五千年以上も前に堕雨を縛り付けた術印は、その脆さを顕著にして崩壊し始めた。
「唯ノ空白ヲ綴ッタニモ等シイ生ニ終止符ヲ打ツ事ガ出来タ——我ニハ今、例エ難キ感情ガ芽生エテイル」
「その心は?」
堕雨を縛り付けていた呪縛が消え、堕雨が夜空に溶ける様に姿を眩ませてゆく。
黒い靄が水中を漂う泡の如く広がっていた。
「平タク言エバ、感謝——」
消えゆく最中、最期に満足げに、堕雨は言い残した。
両翼の先から靄が霧散していき、それはやがて体に胴体に及ぶ。
(堕雨は欲によって幾度も事件を引き起こした。それが夢境から出た途端、あの様子。堕雨自身には、一体なにがあった?夢境の支配者という権能を手に入れたからこそ、七夢の堕雨として賢術師の長年の敵とされていたけど、さっきの絵に描いたような興冷めは——)
嘘を吐いている様には、柊には見えなかった。
本心から突如として興に冷め、欲も果て自ら裁きを望んだ。あれが、本当に七夢の堕雨なのか。
(夢境の世界でだけ、欲が生まれた。そんなことがあるのか?裏に、それを真に司る何かが——)
と、考えていると、突然柊の携帯端末が震えた。
見ると美乃梨からの電話を受信していた。
「はいはーい」
『はいはーいじゃないわよ。七夢の堕雨は?夢から出られたみたいだけれど、あんたはどこにいるの?討伐してないならまた現地に戻らなくち——』
「無事、討伐し終えたよ。そうだ、みのりんから楓真に伝えておいてくれない?」
一瞬の間の後、不可解そうな声が漏れた。
『は、はぁ?討伐し終えたって……』
信じられないといった様子で美乃梨が問うので、柊は適当にあしらい、続ける。
「あとで細かいことは説明するから。とりあえず今は不問にいておいて」
いつもとは違う真面目そうな声に、美乃梨は二つ返事でそれに了承した。
『わかったわ。本部には連絡しておく。早いとこ、あんたも戻って来なさいよ。あ、そうそう。あんたが私たちを危険に晒したこと、あとでよーく言ってやるから覚えておきなさいね』
「へ、へい」
不穏な雰囲気を残しつつ、美乃梨が通話を切る。
気を取り直し、柊は正面を見つめた。
死を迎え霧散する黒鳥へ、柊は最期に問う。
「お前は、本当に最初から七夢の堕雨だったのか?夢境の中だけで欲が生まれるなんて、なんか腑に落ちないよね。まぁ、お前の権能をよく理解してる訳じゃないからなんとも言えないけどね」
堕雨の巨躯はやがて完全に消え去った。
それは夜空の彼方の方へ風に乗って去り、空のオーロラを成す天陰月庭の輝きに混じるかのように消えて行った。
大昔から託されて来た七夢の堕雨が、現代において、ついに死に絶えたのだ。
「今に分かることじゃないか。先に調べなくちゃいけないこともあるし」
柊は確認用に、掌から少量の術水を放出する。
それはこれまで通り、蒼白いオーラだった。先ほど夢境内で謎の声と共に放出した黒き術水は、見る影もない。
(あれが衝動……感じたのは初めてだ。術水が存在してるだけで夢境の世界を揺るがすほどの力——忌み子の力の片鱗が現れたのだとしたら、《闇渦》への昇華に繋がる衝動が来るのも時間の問題か)
脳内に響く謎の声も、夢境を崩壊させた黒き術水の放出も、夢境が崩壊する頃にはすっかり収まっていた。
衝動が出てくるのが時間の問題なのか、何か条件があるのかは、忌み子本人たる柊とて定かではない。
(一旦戻ろうかな。今回の任務の目標は達成したわけだしね)
夜空の下。
いくつかの疑念を残しつつも、任務を達成した柊はゆるりと地面に向かって降下していった。
先代より託された七夢の堕雨、ついに没す——
第二章も残すとこ、次の80話のみとなりました。これまで一度でも読んでくれた読者の皆様、ありがとうございます!