第78話 堕雨の空虚(こころ)
本日は少し長めでお送りいたします。
夢境は、その外殻を崩壊させる。
堕雨の権能たる夢境の根幹は、その外殻にあったのだ。外殻は夢境の世界を、秩序の荒んだ深淵夢境から守るためのものだった。
空域の上を覆う外殻が破壊された以上、そこから深淵夢境の荒んだ魔源の波が漏れ、それに耐えきれぬ夢境は破滅の一途を辿る。
柊の狙いは、まさにそれだった。
柊は空域の遥か上に大穴が開いたとき、深淵夢境の秩序が以前より入り乱れていることを悟った。その力が夢境の世界に漏れれば、忽ち夢境は自滅を始めるのだと。
柊の予想通り、深淵夢境から漏れ出した魔源の波は夢境を蝕み、やがて存在そのものを破壊した。
それにより、ついに七夢の堕雨が現実世界へと放り出されたのだ。
***
黒舞地区南方方面。
空にオーロラを成す天陰月庭内部。
点々とした光が散りばめられたその星空に、ふと一条の光が透き通った。
光の道の如く地上の一点を照らした一条の光筋がやがて広がる。
「現実の世界は空気が美味しいだろ」
「マサカ……本当ニ、現実ノ世界ニ——」
夢境が破壊され、美乃梨らと柊、七夢の堕雨は現実世界へ。騒ぎにならぬよう柊の術式により夜空に連れ出された堕雨が、信じられないと言った様子で目を丸くしていた。
「我モ分カラナカッタ……ナゼ貴様ニハ分カッタ」
「厳密には、まだお前は現実世界に出られていない。形式上、身体が現実世界に存在しているだけで、その根幹たるモノは……」
柊が言いながら堕雨の巨躯の中央を指し示す。柊の指し示した先、堕雨の胸の前に暗赤の術印が浮かんでいた。
柊は言葉を続ける。
「それが、柊國俊がお前にかけた呪縛だ。見たことない印だけど、お前を夢境内に縛り付け続けた術印は、おそらくそれだろう」
堕雨は驚くでも構えるでもなく、ただ柊の話を聞いていた。
「その術印は、お前の本質を夢境に閉じ込め続け、逆に考えれば、お前の生命維持装置でもあるモノだ。夢境の力がなければ生きながらえないお前にとって、現実世界に出ることは何よりの毒であり、柊國俊はそれを知っていた」
だからこそ、柊國俊は後世へ託したのかもしれない。
自身が堕雨にかけた術式を解き、本当の意味で堕雨を殺せる賢術師が誕生する可能性に賭けて。
「……ナルホドナ」
それを聞いた堕雨の表情は、穏やかだった。
先ほどまであった怒気は消え失せており、柊を真っ直ぐ突き刺すような鋭い視線もない。
「漸ク、分カッタ。我ハ閉ジ込メラレテイタノト同時ニ、生カサレテイタワケダ」
「まぁ言っちゃえばそうだね。つまり、俺が今その術式を破壊すれば、お前は本当の意味で死ぬ。夢境が消えた今、俺に抵抗する力なんて残ってるはずもないだろうね」
堕雨はしばらく黙っていたが、しかし振り切ったように話し始める。
「我ガ本当ニ望ンデイタノハ、何ダッタノダ。夢境カラ出ル事カ——否。我ハ飽キテイタノヤモ知レヌ。飢エニ欲ヲ掻キ、果テシナイ数ノ人間ノヲ殺シ喰ウ。サナガラ鳥籠ノ中デ餌ヲ喰ラッテイタダケノ生ニ、有リモセヌ価値ヲ見出ソウトシ……」
どこか寂しげに、堕雨は喋る。
拙いが、その言葉にはしっかりとした意味が感じられた。
悲しみに暮れた人間が持つような、ただならぬ哀愁。今の堕雨には、それがあった。
「現実ヘノ憧レ、ソレダケガ我ヲ突キ動カス行動原理ダッタノニ——」
堕雨の戦意は見て取れるほど冷め切っていた。
冷静となって自身を見つめれば見つめる程、これまでの行動の愚かさ、無意味さに打ちひしがれている、そんな様子で。
「イツシカ焦ガレテイタモノハ灰ト成レ果テ、欲ハ薄レテユキ、目覚メヌ呪縛ニ唯死ナズニ過ゴスダケノ悠久ノ時ガ去ッテ行ッタ」
久遠の彼方を見つめるかのように、七夢の堕雨は夜空を見つめる。両者の視線が時々交錯するが、それを包み込む沈黙の後、柊が言葉を発した。
「同情はしないよ。飢えのために人間を貪ったお前には相応の罰が必要だ」
そう言い、柊が術水の太刀を握る。
「今、我ハ死ノミヲ望ム木偶ニ過ギヌ」
蒼白く輝く術水の太刀を前にして、堕雨は微動だにしない。それどころか、言葉の通り死を望み、その太刀で断ち切られるのを待っているかのようだ。
「饑イ……ダガ、欲ガナイ……コノ空虚ハキット、裁キヲ強ク渇望シテイル」
「興冷めか。さっきまで俺らを食おうとしてたのに」
「我ニモ分カラヌ。分カラヌカラコソ、ソノ空虚ニ正直ニナル事ガ出来得タ」
七夢の堕雨に悪意は感じられない。
柊は謎を解き明かすべく、堕雨へ問いかける。
「結局、君に関して考えれば考えるほど謎が深まるばかりだったよ。その答え合わせを、最後にさせてくれるかい」
堕雨は答えない。
それをあえて了承の意と解釈し、柊が話を進める。
「君と鵺魔っていう魔術骸を倒したら夢境に誘うプロセスがあるんじゃない?」
柊の問いかけに、ただ真っ直ぐに正面を見つめたまま、堕雨は静かに呟いた。
「ソウダ。鵺魔ハ我ガ支配シタ傀儡タル魔術骸。我ノ権能ガ働ク魔術骸ハ殺サレレバ、自身ヲ殺シタ対象ノ相手ニ、夢ヘト誘ウ呪イヲ付与スルコトガ出来ル。ソレガ我ガ権能デアル、忘却夢路ダ」
鵺魔は堕雨の支配を受け、同時にその権能も使うことができたというわけだ。
「忘却夢路の権能を持ってる魔術骸は他にいるの?」
「フッ……」
乾いた笑みをたたえ、堕雨が嘴を開く。
「誰ガ我ノ権能ヲ使エヨウト、我ガ死ネバ、全テ権能者ハ朽チ果テルコトダロウ」
堕雨さえ討伐すれば、忘却夢路の権能を持つ魔術骸を一掃できるならそれに越したことはない。
柊は頷きながら、ボソボソと喋っては情報を整理する。
「嘘は吐いてない?」
「何故ダロウナ。今、コノ空虚ニ邪心ハ無イヨウニ思エル」
吐いていない、という意味だろう。
柊と話しながらも久遠の彼方を見つめ続ける堕雨の表情には、何と言い表せるほどの感情は宿ってはいなかった。
強いて言えば、諦念。
溜息混じりに溢れる堕雨の言葉の節々に、僅かな気力すら失ったと言わんばかりの弱々しさが見え隠れしていた。
「先ホドノ人間ヲ喰ウマデハ、コノ空虚ニハ、悍マシキ邪ガ渦巻イテイタカモ知レヌ。ダガ、今トナッテソノ邪は消エ失セタ。願イモ、野望モ、意志デサエモ、ソノ全テハ無ニ帰シタ」
「それが一番わからないな」
(夢境から出た瞬間、この態度。特に命乞いをする訳でもなく、ただただ今の心境を打ち明けるばかり。この変化は一体……)
堕雨の表情が淀む。
「飢エヲ一時的ニ凌グタメ、先刻ノ人間ヲ喰う時ニハ同胞ヲモ犠牲ニシタ。ソノ結果ガ、報ワレヌ哀レナ虚空ノ空虚。必死ニ生キヨウトシタ何千年ガ、コウモ呆気無ク泡ノ如ク消エルノミ……」
堕雨は街を俯瞰するように視線を眼下へ向ける。
それに向かって術水の太刀を構えながらも、柊は問いかけた。
「死んだ人間の夢境にも残れるのか?」
「肉体ノ死ノ後、ソノ本質ヤ意思ガ死ヌマデハ僅カナガラ猶予ガアル。ソノ間ニ、別ノ人間ノ夢境ヘ移動スレバ良イダケノコトダ」
堕雨が支配した複数の人間が現実世界で近くにいなくとも、一度支配した人間の夢境内なら堕雨は自由に移動できる。
そして、忘却夢路の権能は、それを持つ魔術骸が死んだ時、対象に夢境の中へ強制的に引き摺り込む呪いをかけるものだ。
それらの情報から、柊はとある推論を出した。
(最初の被害者である男性と通報者である女性男性の方の夢には事前に堕雨が入り込んで、男性を破壊する。そして女性の方には通報直後、忘却夢路の権能を持つ魔術骸を向かわせた。魔術骸は自死することで女性に忘却夢路の呪いをかけ、女性を強制的に夢境の中へ引き摺り込む、つまりは眠らせた。それを支配した堕雨が女性も破壊し、俺らが到着する前に、用意しておいた他者の夢境へ逃げたってことか)
「さっき、被害者二人を三分足らずで殺したプロセスがわかったぞ」
「ホウ。我ニトッテハ、最早ドウデモ良イコトダ。ナニモカモナ」
(女性の夢境への道が一時的に開かれ、そこから堕雨の魔源が漏れ出したのか分かんないけど、被害者が死んでたあの部屋には魔源が充満していた。堕雨のものと見て間違いないだろう。そしてその中に混じってた別の魔源は、自死することで女性を夢境へ誘った魔術骸のものだったわけだ)
堕雨がふと、自身の胸元へ視線を落とす。
「……」
何かを言いたげだが、堕雨は黙っている。それを見た柊が、堕雨の視線の先を指し示して言った。
「その術印が気になるか」
「……イイヤ。フト妙ナ懐シサヲ感ジタニ過ギン」
先程にも増して、弱々しい言葉だった。
その灯火は、息を吹けば消え失せそうなほど小さい。
「なんか、夢境から出て女々しくなったな。改心した、とは言わない。お前がこれまで殺してきた人間たちの苦痛は、お前の死くらいじゃとても釣り合わないぞ。最後まで後悔しながら死ね」
全てを受け入れると言わんばかりに、堕雨は脱力し、無防備であることを示した。
「償イ切レヌナラ、セメテ……こ……この……」
堕雨の声が変わる。
それは先刻、夢境内で聞いた謎の声だ。
「夢境内で聞こえた声……?」
柊がぼそっと呟いた。謎の声が、それに呼応する。
『……これでようやく、解放される。ありがとう、柊の者……』
「君は、誰だ?堕雨とどういう関係なんだ?」
『……外見は堕雨。この声は私、東阪河乃の意志が反映されたも……ノ……』
謎の声にノイズが走る。
『……長くは、語れ……ないの……』
静謐な声だった。
その外見から発せられる声だとは思えないほどに、透き通るかのような声。
その声は、ノイズ混じりに柊に伝える。
『死棘帝は……東阪の天敵……。神に仇なし、滅ぼされた東阪の怨恨を集約した、世界の害敵。奴を……放っておいては、ならない……』
「なんの話だ——」
『私たちが実現出来なかった、本当の平穏が……人類を照らすことを……願う、ば……かり……。あなたなら、成し遂げられる……——』
柊の声など意に介さず、謎の声は続ける。
そして、まもなく声は潰えた。
「まだ話は……」
声が消え、柊は改めて堕雨へ視線を注ぐ。
そこにいるのは、死を受け入れた、戦意を持たぬ黒き巨鳥。柊に残された選択肢は、もはや一つであった。
「事情は知らない。だけど、今の声を無碍にすることは出来ないだろうね。七夢の堕雨」
柊がその名を呼ぶが、返答はない。
「わかったよ。そのまま、死を受け入れろ」
夢境から出た堕雨が明かした心情。果たして、それは本心か否か——




