第75話 飢えし黒鳥
某所。
何処までも無限に続くかのような水平線。
水天髣髴とした視線の遥か先の水平線はその輪郭を歪ませており、凝視するほどに、その形を無作為に変えてゆく。
「……来たよ」
「……えっ」
赤の絨毯の上に横たわる美乃梨、虹、輪慧に、柊がそっと声をかける。
それに反応して真っ先に起き上がった美乃梨が、視界の限り広がる水平線を見渡した。
「まさか、ここが——」
「夢境だよ。既に堕雨の支配した」
広大な空間に、ただ柊の声が響く。
際限なく広がるこの世界で、しかし密閉空間かのように声が響くのだ。まるでそこに壁があり、声が跳ね返っているかのように。
『君たち』
突如、声がした。
『——助けて』
静謐で、透き通ったような声。
時にそれは、慟哭にも聞こえた。
背後から聞こえてくる気もするし、頭上から聞こえてくる気もする。
どこからともなく聞こえてくる謎の声に、柊と美乃梨は辺りをぐるぐると見渡した。
しかし、声の主らしき者は見つからない。
『——ここから出して』
切望するように絞り出したような声が、幾度となく聞こえてくる。
柊はその声に問う。
「君は誰?どこにいるんだい」
しばらくしても、返答はない。代わりに、同じように訴えかけるような声が続いている。
『——もうすぐ……戻って……くる』
その声に、ズズッとノイズが入る。
『戻って…………クル』
瞬間、透き通っていたはずの青空が突如曇り始めた。やがて如何なる光も無くなり、周囲が暗黒に包まれる。
「……ここは?」
「……夢境っ?」
あたふたと視線を巡らす美乃梨の足元、赤の絨毯の上で眠っていた虹と輪慧が目を覚ます。
「確か通報を受けて……」
柊が事情を説明する。
「通報を受けて、俺らは被害者が生きてるうちに、その人を通って夢境へ入ることが出来たんだけど、どうやら、前に俺と學が入った夢境とは様子が違うらしいんだよね」
虹と輪慧が立ち上がる。
「こんな暗い場所なんですか……?」
「いいや、俺らが来た時は透き通った青空だった。でも、今は暗い。異常事態が起きてるのかも知れない。堕雨がどこにいるかわからないから注意して」
「「はい」」
気を張っていると、しばらくして、美乃梨が頭上に何かを見つけた。
「みんな、アレ……」
美乃梨の指し示す方向へ、全員が目を向ける。
暗き空、その中央に一筋の亀裂があった。それは瞬く間に広がってゆき、やがて中から闇色の羽が見えた。
同時に、暗き空に禍々しきオーラが充満する。
「《顕現印》仮想実現」
何かを察知した柊が、咄嗟に全員を包み込む術水のドームを造る。
「波瑠——」
瞬間、暗き空から雨のように何かが降り注いだ。落ちてきたそれはズドドドドドッと耳を劈くほどの轟音と共に、地面を抉りに抉っていく。
「先生、これはっ!?」
ギエエエェェェという耳を劈くような鳴き声が、どこか悲しげな号哭の如き旋律を奏でる。
悲痛を宿したような叫びが幾度となくこの場に木霊していた。
「堕雨の襲撃だ。それに、ここは夢境の中。奴を殺すことができるはず。作戦通り、俺ら四人で七夢の堕雨を討つ——」
数秒、嵐のように過ぎ去った地面を抉る雨。合図にして全員が術水のドームから出て散開する。
『人ノ運命ニ岐路ヲ与エシ夢——』
先ほど聞こえてきた声ではない。柊も聞いたことのある、堕雨の声そのものだ。
『飢エガ……飢エガ……トテモ満タサレヌ……』
暗き空の亀裂を破り、そこから巨大な黒鳥が姿を現す。その両翼は既に七色のオーラを纏っており、その巨躯が勢いよく地面へと落下した。
またもやドオオオォンというけたたましき音を立てて地面が、空が、世界が揺れる。
「久しぶりだね」
『正真正銘、ココガ貴様ラノ墓場デアル』
堕雨が全身から夥しい量の魔源を放出させながら、柊と睨みを利かせ合う。
「俺ら四人、容赦なく行くからね」
柊の言葉と同時に、三方向から三人が一斉に術印を描く。
「《音響印》——」
「《銃門印》——」
「《蒼河印》——」
数瞬早く、美乃梨が術式を放つ。
「——一式、[停音呪壊]」
美しい唄声と共に波紋が広がり、堕雨の身体を内部から激しく揺さぶる。
ほぼ同時に、輪慧の半詠唱の[永海領]が発動し、足元から堕雨を少しずつ飲み込んでゆく。
「《蒼河印》二式、[玉砕魚群]っ!!」
[永海領]発動から間髪開けず、群れを成す無数の魚が堕雨に纏わりつく。
「一式——」
一方で溜めのある詠唱と同時に、虹の術印が縦に術水のよ渦を巻きながら筒を構築する。
「[戦衡砲撃]っ!!」
構築された筒が一息に弾け、一発の弾丸が堕雨の脳天を捉えた。
[停音呪壊]によって揺さぶられ、吐血する堕雨の頭を一息に吹き飛ばす。
同時進行で、託斗の[玉砕魚群]が堕雨の身体を削り、足元の[永海領]がどんどん堕雨の身体を飲み込んでゆく。
やがて、堕雨の身体は完全に[永海領]に沈んだ。
全員が沈黙し、[永海領]を見つめている。
「……これで終わり?」
「やりましたかね」
「いいや、多分——」
『言ッタダロウ。ココガ、貴様ラノ墓場ダト』
どこからともなく聞こえてくる声。先ほどと同じだ。夢境内でこれでもかと響く。
「海ノ深淵ナド浅キモノ。我ハ八百万ヨリ深キ人ノ夢ヲ司ル者——」
消えかけの[永海領]がぱっくりと裂けて開き、勢いよく黒い影が飛び出して来る。
「《狡猾な悪魔の微笑み》」
黒い影、七夢の堕雨は詠唱を行う。
暗き夢境の世界に、ぽぅと複数の純白の球体が出現する。それらは忽ち柊たちを取り囲み、その正体を露わにしていく。
「宵為鴉の軍勢」
純白の球体が黒く染まり、肥大化する。
「「「ギュエエエエエエエエエエエェェッ!」」」
口頭合わせて雄叫びを上げる。それは、鬨の声とも取れるほどの鳴動だ。
「宵為鴉……!?」
「現実世界で見た者を堕雨の支配下に置くトリガーとなる魔術骸だけど、夢境の中で見たらどうなるのよ!?」
空に疎らに布陣を展開する宵為鴉の軍勢が、その全てが柊らに視線を突き刺している。
同時に幾度となく号哭の如き鳴動が広がっていた。
「「「ギエエエェェェッ!!!!」」」
その声が響き渡るだけで、夢境の世界が震撼している。その中央にて黒翼を羽撃かせる堕雨が、静かに嘴を開き、言葉を発した。
「饑イ……上等肉ニアリ付ケテイヌ。喰ワセロ、喰ワセロ……喰ワセロッ」
夢境内にて、ついに七夢の堕雨と相対す——




