第73話 天陰月庭
夕刻。
午後五時半。
三区それぞれに二班ずつ配置され、人々が寝静まる頃まで待つ。
数日前から、三区の住民には事前に本部より作戦への協力について伝達されており、確認でき得る全ての住宅が了承したことを確認している。
配置された地区と班は次の通りである。
黒舞地区中央、一班配置。
黒舞地区南方方面、二班配置。
蓮辺地区山岳地帯方面、三班配置。
蓮辺地区小住宅街、四班配置。
山蓋地区立入禁止域周辺、五班配置。
山蓋地区東方方面、六班配置。
三区中央、七班配置。
及び、作戦司令、冬野裕美は本部帝郭殿に待機とし、遠隔で各班に指令を出すこととする。
『作戦司令塔、冬野美裕です。私の勝手ながら都合が重なってしまい事前に挨拶に行くことが出来ず、誠に申し訳ありませんでした。また、作戦実行にあたり、協力してくださる『万』の方々には深く感謝を申し上げます』
数十分ほど前に届いたメールだ。そして、作戦開始三〇分前となった今、冬野美裕よりもう一件、メールが届く。
『これより、該当の三区を私の術式により分断致します。他の魔術骸の侵入を防ぐためです。以後、賢術師の皆様も出入りが出来ませんので、該当の三区にまだ入っていない賢術師の皆様は速やかにお入りくださいます様、よろしくお願いいたします』
***
本部帝郭殿、司令室。
鮮やかな白銀のツインテールを靡かせながら、正面の大画面に向かって座るのは、本部伝令班班長、冬野美裕だ。制服には楓真のものと同じバッジを付けている。
「班長。指揮官より、作戦参加の賢術師全員が配置についたとの伝達」
美裕の部下の賢術師が実直に述べる。
「わかった。指揮官に伝えろ、これより作戦を開始する」
そう言いながら、美裕は立ち上がる。同時に彼女の頭上で白銀のオーラが濃縮し、それが弾けると、フロストフラワーが引き起こる。
無数に空中を舞う氷の結晶がキラキラと輝き、その中心に半月が出現した。
「凍てつく箱は月霜に覆われ、汝を優しく包み込む——《月庭印》」
***
三区の凡そ中心の遥か上空に白銀の術印が展開される。それは月光の如き淡い輝きを放出しており、夕日の橙色を覆し、この場に夜を齎した。
「来たか」
遥希と澪と一緒に待機していた楓真が呟いた。
「楓真さん、あれは——」
遥希が言葉を詰まらせるのと同時に、その術印は凄まじく、神々しい光を放ち、そこから四方八方に瀑布が広がる。
オーロラのように七種の色が繰り返され、遥希と澪が見惚れている間に、そのオーロラはドーム状に三区を包み込んだ。
「彼女の術印、《月庭印》で創造する無敵の盾、通称、[天陰月庭]。今、我々がいるのは、彼女の展開した壁に包まれた庭の上なんだよ」
上空のオーロラを仰ぎながら楓真が説明する。かと言う遥希と澪も、その美しさに釘付けになっていた。携帯端末を握り、楓真が口を開く。
『[天陰月庭]は明け方まで解除しないものとする。堕雨討伐作戦、開始』
楓真の全体への伝達で、ついに作戦の火蓋が切って落とされた。
***
黒舞地区南方方面。
「了解。これより巡回を行います」
美乃梨、虹、輪慧が並び、歩き始める。基本的に賢術師は周辺を巡回するか待機することになっており、行動の有無は各班で決めることになっている。
主な理由としては、各班の場所によって通信状況が悪い可能性があるためである。
例えば山岳地帯の多い蓮辺地区では、特に山岳地帯周辺の三班などは、通信状況が場所により著しく変化するため、三班は頻繁な場所移動が求められる。
それ以外の班は基本的に通信が繋がるような住宅街担当になるが、何が起きようと臨機応変に対応するため、と言う理由で巡回か待機かの選択権が各班に委ねられていると言うわけだ。
***
三区中央。
「あぁ、俺は勿論待機で」
聳え立つ電波塔の頂点でそう連絡するのは柊である。三区が見渡せる電波塔で待機し、何かあればそこから直行する算段だろう。
***
山蓋地区立入禁止域周辺。
「こちら野々田魁斗。立入禁止エリア周辺の巡回を開始します」
そう伝達するのは、本部賢術師、野々田魁斗である。隣で、同じく本部賢術師の古黒晃楽が、同班である希空と話していた。
「よろしく、姫狗さん」
「よろしくお願いします。晃楽さんと魁斗さん、でよろしかったですよね……?」
「うん」
晃楽と希空が話してる中に魁斗が割り込む。
「巡回開始だ。姫狗さん、よろしくね」
「はいっ」
魁斗と晃楽が並んで歩き出し、その背に着いて希空も歩き出した。目的地は、目の前に広がる閑静な住宅街だ。
まだ夕刻、いつも小さな子供たちが走り回って遊んでいるような時間帯だが、今日はそんな光景は微塵も見られない。
堕雨討伐作戦のため、街全体の時が止まったかのように静まり返っている。
「山蓋地区は前の襲撃事案があって以来、立入禁止エリアのみならず、その周辺に人が住まなくなってしまった。閑静とはよく言ったもので、襲撃事案以前のような活気がこの街に戻ることは、しばらくはないだろう。今夜も、これからしばらくも、住民は皆恐怖と共に床に就くんだ」
魁斗言葉を聞き、希空は改めて周囲を見渡す。
そうだ。閑静というよりも、まるで最初から何もなかったかのような感覚。そこにある家がただの箱に過ぎず、もぬけの殻のように感じてしまうほど、街全体が生気を失っている。
「恐怖と共に床に就く……」
悪夢によって支配された三区の一端を、三人はゆっくり歩いてゆく。
***
蓮辺地区小住宅街。
五班より少し離れた住宅街のど真ん中。
「久留美先生、巡回と待機、どちらに致しますか」
「とりあえず待機よの」
「承知しました」
待機の旨を伝達するのは、本部賢術師、松織遥乃。美裕と同期であり、かつて久留美が指導していた生徒だ。彼女が伝達し終えると、久留美が横目で言う。
「……先生と呼ぶのはやめろと言ったはずだが」
「あ。申し訳ありません。癖がまだ抜け切れていなくて。以後気をつけます」
久留美が後頭部をぽりぽりと掻く。
「現在教えている生徒に呼ばれたのか否かわかぬから、頼んだぞ」
「申し訳ありません」
遥乃はまるで折れた小枝のように頭を下げる。
「まぁ良い。待機の旨は伝えたのだな?」
「えぇ。既に了承を頂いております」
わかった、と言って久留美は踵を返す。
「さて、どこから来る——夢喰う悪しき鳥」
***
黒舞地区中央。
「黒舞地区は広い。巡回しましょう」
「わかりました」
既に伝達を終えた圭代が言いながら歩き出し、それに返事をしながら託斗も圭代の背に着く。
左右に見える一つ一つの住宅に意識を向けて、微量の魔源の変動も見逃さまいと、二人は気を張る。
「まだ寝静まっていない住宅も多い様ですね」
実際、他の二区に比べ、まだ消灯されていない住宅が多い気がする。
「流石に夕方ですもんね。当然っちゃ当然です」
託斗が言うも、圭代は険しい表情をする。
「堕雨の事案は日が沈む一八時過ぎから日の昇る朝方、四時過ぎまでの一〇時間の間で起きているのがほとんどです。過去の資料も確認しましたが、一五年前の一連の事案も全く同じです」
黒舞地区全体が寝静まっているわけではなさそうだが、やはり静寂の中、圭代は話を続ける。
「住人には出来るだけ早く寝静まる様要請を本部から出しているはずですがね」
既に時刻は、圭代の言っていた時間である一八時を回る。堕雨の出現率を少しでも高めることが、討伐への最初の道といっても過言ではないが、寝静まっていない住宅、住民がいれば、その分堕雨の出現率も下がる。
圭代が危惧しているのはそれだ。
「だからと言って呼びかけている暇は——」
「ないことは充分承知の上です。だから結局、住民たちの自主性に任せる他ない、だから不安なのです」
若干曇った口調だが、とはいえ作戦は始まっている。二人は話しながらも、黒舞地区の住宅街の奥へ奥へと巡回を続けた。
***
一八時四五分、蓮辺地区山岳地帯周辺。
静まり返った住宅街の裏で、ついに蠢く。
「蓮辺地区山岳地帯周辺、川沿いに連なる住宅の三番目の住宅で苦しむ住人が居るとの通報っ!現場へ枢木迦流堕と神野流聖が急行します……!」
迦流堕と流聖が川沿いを全速力で駆け抜ける。
「流聖っ、波瑠明には——」
「連絡つきましたっ!」
「飛ばすぞっ」
「はいっ」
作戦司令である裕美と、柊への連絡を終えた二人が、生憎の向かい風の中現場へ急行する。
その傍ら、裕美から全体への伝達が入り、全員が事態を知る。
『蓮辺地区山岳地帯周辺担当の三班が通報を受け、現場へ急行中。他の班の賢術師も不測の事態に備えるようにして下さい』
通報から三分後、迦流堕と流聖が現場である住宅へ現着。僅かに遅れて柊も到着した。
「本部から連絡が事前に行ってるから、鍵は開いてる。行くぞ」
「おう」
柊と迦流堕を先頭に、住宅の中へ入り、即座に被害者を探す。一分にも満たない時間で、迦流堕が被害者を発見した。
乱れるように場に充満する魔源。
その中へ歩を進め、柊がすぐさま被害者に駆け寄る。動は無く、静のみがあった。住人と思われる二名の一般人が血塗れで床に倒れていた。
「……報告。現場へ到着後、被害者を発見」
柊が二名の身体の首筋や胸に手を触れ、しかし、その後静かに首を横に振った。
「しかし、被害者と思われる男性一名、通報者と思われる女性一名——両者の死亡を確認」
報告途中、柊がふと顔を上げる。
(充満してる魔源の中に……わずかだが別の波長の魔源が混じってる……?)
舞台が整った矢先の出来事——