第61話 果たすべき大望
(あの翼、二年前のあの時の)
既に満身創痍の身体を私は奮い立たせた。
「《蒼河印》」
身体から溢れ出す術水を、この場を包む海へ。廉斗の辿り着いた極地へ、私も征く。
「……まさか、あれが」
瞬間、死棘帝が不敵な笑みを浮かべて爪を立てる。
「廉斗の魅せた術印の深層——まさかお前も」
死棘帝が翼を広げて飛び立つ。
天井付近で停止すると体勢をこちらへ向け、天井を蹴って勢いよく突っ込んできた。
「[凪時流転]っ!」
周囲の海が蒼き壁を成し、私を包み込む。それは死棘帝が私に爪を突き出し、危うく私を貫かんとする寸前のことだった。
(持って……私の壁っ)
[凪時流転]の蒼壁と死棘帝の爪が拮抗する。
「《地を囲繞する砂塵》」
死棘帝の爪と拮抗していた蒼壁に、天井から数多の槍が、四方八方の壁から黒き閃光が鋭く牙を剥く。
総攻撃を前に、蒼壁に亀裂が入るもしかしその形を強いて保つ。
([凪時流転]の状態変化は自在……死棘帝の攻撃は液体の状態だと容易くぶち抜いてくると踏んで正解だった。あとは防御に徹してカウンターを見舞するだけ……!)
歩夢を包む海が後方から死棘帝を包み込む。
「癪な水どもめ」
死棘帝が一瞬目を逸らしてその海を横一閃に薙ぎ払う。その瞬間を見逃さず、私はガードを解いて真横へ移動する。
(消耗戦になれば間違いなく押し負ける。タイミングをずらせる一手があれば、あるいは……)
死棘帝が真横に飛んだ私をギロリと睨み付ける。
「無駄な足掻きを」
半笑いで死棘帝がこちらへ向かってくる。
「《神髄印》」
向かってくる死棘帝よりも先に私に追いつく槍と黒き閃光を術式によるガードでなく身を捻って交わしながら術水消費を抑えつつ、詠唱を行う。
「一式[天撃]」
私の目の前の《神髄印》より、数多の光弾が撃ち放た。それらは死棘帝の槍や閃光を包み込んで相殺する。
さらに私の周囲に《神髄印》が三つ出現し、そこからも数多の[天撃]が一斉に放たれる。
(計四つの《神髄印》全てに意識を集中するの……!威力に偏りが出れば、死棘帝の攻撃がすり抜けて思わぬダメージをくらう)
尋常じゃないレベルの術水消費と極限の集中力を要求されてこそ成せる数の暴力。
槍と閃光の一つ一つも見逃さずに相殺し、ついに私の[天撃]が死棘帝の攻撃の総数を上回った。
「ほう」
死棘帝に有り余った[天撃]が次々と着弾する。
「ならばこれならばどうだ?《亡骸傀儡操作》」
死棘帝の影がぐにゃりと歪むと、それが死棘帝のそれとは異なる影を象った。それに魔源が収縮すると、それは立体化する。
「東阪廉斗」
死棘帝の影より出て私へと鋭き睨みを利かせるのは、東阪廉斗の姿をした生物だ。さっき私が貫いた廉斗と同じ魔術だろう。
「《ソウガイン》、ニシキ」
その生物は到底廉斗のものではない悍ましく重低音の声で詠唱を行った。
「[ギョクサイギョグン]」
放たれた蒼白き魚群が襲い掛かってくる。
「二式、[雷天獄破]っ!」
四つの術印からの[天撃]を継続しつつ、一点に圧縮された光弾が魚群に飲み込まれる。その瞬間、弾け飛んだ光弾が内側から魚群を飲み込んでいき、やがて消失した。
「ゴシキ、[カイオウ]」
廉斗の姿をした生物はその身に私と同じ力を宿した。私と同じ三叉槍を携え、それを突き出した。私は身を捻ってその突きを躱し、不安定な体勢のまま無詠唱の[凪時流転]で廉斗の全身を包み込む。
(廉斗の複製?完璧な廉斗の実力を再現することはおそらく現実的じゃない。廉斗の亡骸をそのまま使ったりさえしなければ——)
そう思っていると、目の前に展開したはずの[凪時流転]が横一閃に引き裂かれた。
それは一瞬の出来事で、未だ不安定なままの私の腹部に三叉槍が迫った。
「!!?」
私は自身の体勢が不安定であることを利用してそのまま床に倒れ、そのまま廉斗の両足を蹴り払う。よろけた廉斗に対して私は即座に立ち上がり、術印を展開する。
「《蒼河印》——」
(さっきみたいに躊躇わない)
私の全身からこれまでにないほどの術水が溢れ出し、死棘帝の槍や閃光を寄せ付けないほどのオーラを放っていた。
(廉斗、見ててね。胸を張ってあんたへの贖罪が果たせたと思えるように)
「超越刻印——」
それは兄が辿り着いた境地にして、久留美先生との鍛錬を経て会得した術印の極地。
「《海祇身輪舞奏》っ!!!」
身を捻り潰さんとするほどの重圧が私に降り注ぐ。代わりに、私の目の前の空間全てを穿ち、ぶち壊すほどの衝撃波が通り過ぎた。
「私もここに辿り着いた——」
廉斗の辿り着いた境地へ。
***
(××××!)
……?何て?
唐突に脳内に流れてきた記憶。情景が、いや、これは誰かの視点?
脳内に流れてくるそればかりが鮮明で、私自身の視界が歪んでしまって何も見えない。あの術式を撃って、どうなったの?早く視界が戻らないと——。
***
体感時間にして二秒。
視界が戻ると、そこに人影が一つあった。
ニヤリと口角を上げた邪影、悪魔の如きその輪郭。
そんな奴を前に、私の身体は、私の言うことを聞かず停止したままだ。
「予想的中だ」
右半身が凡そ削れて消し飛んだ死棘帝の姿。
(は?身体が動かない……なんでよ……こんなのって…………)
死棘帝の左腕が私の胸部をぶち抜いた。背中まで貫き抜けた感覚の後、一瞬だけ身体が燃えるような熱さに見舞われたかのような感覚があった。
同時に、頬を何かが伝う感覚もあった。
「その苦痛もすぐに消える」
「し……ねよ……」
「死ぬには根拠がなければな」
悔しくて、無意識に握っていた両手が勝手に解ける。
死棘帝が私の首を掴み、締めながら私の穴の空いた身体を持ち上げた。抵抗しようにも力は入らない。術水の自然放出が時を刻むほどに弱くなるのを感じる。
「《亡骸傀儡使役》」
私の身体はその原型を失ってゆく。同時に視界がぼやけ、それまで感じていた身体の感覚の悉くが無くなり、やがて無に帰した。
***
歩夢の身体は、死棘帝の手に収まるサイズの、淡く光る球体へ圧縮された。
「果たすべき大望叶わず。さて、続々と語り継がれてきたこの物語も、なかなかどうして終盤といったところか——」
含みを持たせて、さも人に話すような口調で死棘帝はそう呟いた。死棘帝は魔源放出を止め、背の翼を仕舞う。そしてゆるりと歩き出した。
「閉じよ、余が領域」
死棘帝の言葉に、空間が震撼する。
そして瞬く間に収縮してゆくと、やがてその空間は死棘帝とともに消え去った。
そこには何も残らず、ただ元あるべき姿に戻っただけだ。その野原には、最初から何もなかった。
その場を無音が包みこみ、その後何かが起こることはなかった——。
煮え滾る想いがあろうと力は及ばず。
一方、學のほうの戦局は——。