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第25話 悲劇


 三年前。

 心地の良い風に靡く木々。風に乗って流れてくる季節の香りが鼻を掠める。


 可憐な花畑の中にある木々の下で走り回る、少年と幼女がいた。


 「あ、お母さんだ!おーい、お母さーんっ」


 先ほどまでかくれんぼで遊んでいた江東稔と、その妹、江東(えとう)彩花(さいか)は、木々の向こう側に見える一人の女性の元へ歩いて行く。


 天真爛漫(てんしんらんまん)に、ただひたすらに走る彩花の後ろ姿に、稔が言葉を投げかけた。

 

 「あんまり走ると危ないぞー」


 「大丈夫だってーっ!」


 彩花は母の元まで走る。


 赤い(ちょう)の刺繍が入った白いワンピースを着たその女性は、彩花が走ってくるのを見ると、手を広げて彩花を迎えた。


 近づくと、母は彩花をギュッと抱き締めた。その時に並んだ母と彩花の顔を見て稔は、やっぱり似ているな、とひっそりと呟く。


 「彩花、お兄ちゃんと遊んでたの?」


 「うん!お兄ちゃんと、かくれんぼしてたの!」


 「よかったね」


 やがて稔が二人に追いついた。


 「母さん、言ってた予定って言うのは終わったの?」


 「えぇ。彩花の面倒見てくれて、ありがとうね。稔」


 母は稔の頭を撫でた。

 少し照れた様子で稔が俯く。


 「帰りましょ。お父さんも待ってるし」


 「うん!」


 「そうだね」


 稔と彩花が母の言葉に返事をした。



 ***



 その時の母の予定というのが、(わずら)っていた重病の経過観察のために病院に通っていたことだと俺が知ったのは、およそ一週間後だった。


 ある日、彩花が寝静まった真夜中、俺の目の前で母は苦しそうに胸を押さえながら倒れた。


 「お、お母さん……!?」


 床に倒れる母は、尋常ではないほどの汗を滴らせており、乱れる髪や洋服が、身を裂くような苦しさが母を蝕んでいることを悠然とものがたっている。


 父はその時夜勤だったために家には居なく、俺は急ぎ父に連絡を入れた。幸い電話は繋がった。


 『稔、落ち着け。お前はそのまま母さんのことを見ておくんだ。俺もすぐに帰る。もし俺が帰る前に救急車が来たら連絡してくれ。病院の方に向かうことにする』


 「俺、どうしたらいい?母さんが運ばれたら」


 問うと、父はすぐに返答する。


 『稔は家で彩花を見守っててくれないか?お前に任せて本当に申し訳ないが、彩花を今から起こして病院に行かせるのは可哀想だ。母さんのことは、お父さんに任せなさい』


 「わかった」


 苦しそうに胸を押さえる母。呼吸が段々と荒くなっていく。手先足先の痙攣も見られる。


 やがてサイレンが聞こえ、救急車が到着した。俺は、母が担架(たんか)で運ばれる様子を、黙って見守っていることしか出来なかった。


 俺は救急車が到着した旨を父に連絡すると、父はそのまま病院へ向かうと言っていた。


 母が運ばれ、彩花と二人になった俺は、その晩は眠れずにいたのだった。



 ***



 俺は父から、母の病気についてその全貌を聞いた。


 「稔、落ち着いて聞きなさい」


 そう言い、父は涙を堪えるように唇を噛みながら説明を始めた。


 母が予定を入れていた数日前。


 あの日、母は患っていた病気の定期検診に行っていた。病名は、体内器官壊死(たいないきかんえし)と呼ばれ、簡単に言えば、体内の各器官の機能の一切が停止するというものだった。


 停止した器官はその後完全に壊死状態になり、二度と動かなくなるとのこと。


 今回の母のケースだと、一部の臓器へ繋がる血管が壊死状態になったようだった。


 「……母さんは、いつ帰ってくるの?」


 「母さん、手術しなくちゃいけなくて、一ヶ月くらいはずっと入院生活しなくちゃいけないんだ。その間、できる限りお父さんが家にいるからな。もしどうしてもお父さんがいない時は、稔も家事とか協力してくれるか?」


 「わかった。俺も頑張るよ」


 父さんは俺の頭を強く撫でた。

 悲しそうに、されど嬉しそうに。


 彩花には母の病気のことは伝えず、少し長めのお仕事に出ていると伝えた。彩花に変な心配を与えないためと、父の計らいで。


 母が家にいない間、父の家事の手伝いや彩花の面倒見を徹底した。母に如何に支えられてきたかが身に染みて分かり、それに対するちょっとした恩返し的な気持ちも含めて。


 父は毎日の終わりにありがとうと俺に言ってくれる。そして、寝る直前になると、彩花も俺に甘えてくる。そして同時に言うのだ。


 毎日パパとママ、お兄ちゃんがいてくれて私は幸せだよ、と。


 父も仕事と睡眠時以外は家事をこなしてくれるので、学業が停滞したり、困り事が起きたりなんてことは特に起きなかった。



 ***



 母の手術は無事成功した。


 急性体内器官壊死による血管の壊死状態は、手術が遅れれば危うく腎臓に到達し、死は免れない状況になっていた可能性があったとのこと。


 予定通り入院すれば、充分回復できると告げられた。俺はほっと胸を撫で下ろす。


 「母さん、あと二週間で退院できるってよ」


 「本当!?よかった……」


 「とりあえず、彩花を幼稚園に送って、そのまま仕事に行くな。稔も学校、遅れるなよ?」


 「分かってるよ。行ってらっしゃい」


 「行ってきます」


 いつしか俺も父も不慣れだった家事に慣れ、問題なく生活を送ることが出来ていた。


 今の綺麗な状態の家に迎えれば、きっと母も喜んでくれるに違いない。


 俺は胸を躍らせながら、母の退院を待っていた。


 そしてついに今日は、待ち望んだ母の退院の日だ。俺と父は、母の入院する病院へ足を運んだ。


 病室に着くと、一通り荷物を整理し終えた母が俺と父を迎えてくれた。すっかり元気になった母の姿を見て、思わず俺は涙を流した。


 「よく来てくれたわね」


 そんな俺の頭に手を優しく添え、撫でてくれる母。この暖かさに包まれて育った俺と彩花は、幸せ者だ。


 「荷物は一通りまとめられたか?」


 「あとそこの棚の中のものだけ。服とか入ってるわ」


 「よし、任せろっ」


 父が棚を開ける。畳まれた服と、歯ブラシなどの日用品が入っていた。父はそれを、母の持っていたバッグに次々と詰めていく。


 「今日は彩花は幼稚園なのよね?」


 「そうだ。俺と稔は、それぞれ仕事と学校が休みだったけどな。彩花には心配させないように、長間の仕事に出てると伝えてあるんだ」


 父の言葉に、母が提案する。


 「なら、今日は私が彩花を迎えにいくわ。こっちから会いに行ってあげなきゃ」


 「え?退院したばっかで、大丈夫か?身体とか、だるかったりしないか?その、あれだ。病み上がりって感じだろ?今……」


 少々不器用だが、父の様子から母を心配している気持ちが感じ取れる。病み上がりの母に、無理をさせられないと思っているのだろう。


 「大丈夫よ。それに、彩花に会いたいの。むしろご褒美じゃないの」


 笑顔でそう言う母に、父は優しい微笑みを表情に浮かべる。


 「そうだな。彩花も、早く会いたがってたしな」


 その日の午後、俺らは彩花の通う幼稚園に出向いた。母の顔を見た彩花は、すぐさま走ってきて、真っ先に母に抱き付いた。その時の嬉しそうな母と彩花の顔を、俺は忘れないだろう。


 俺と父は、母の体調を一番に気にしていた。

 母が、みんなで公園で遊ぼうと言い出した時には、本当に大丈夫かなと心配になったが、それも杞憂だった。


 母は元々体力はある方で、公園に行けば何十分も彩花と鬼ごっこをし続けていた。時々様子を窺っても、膝に手をついて息を切らしたり、体調が悪そうなことも一切ない。


 彩花も久しぶりに母と遊ぶのが余程楽しかったのか、いつもに増してはしゃいでいた。


 この公園は、母と彩花とよく来る場所だ。大きな木々が多く、地面には多彩な花々が可憐に咲き誇っている。


 暑い日も木々の影に隠れられて、僅かに頰を掠める様な風が心地良い。母が小さい頃から遊んでいたと言う思い出の公園らしい。


 広大な面積に数々の遊具があり、近所の住人のみならず、遠くからも人が来るような、この街のシンボル的な存在だった。


 「ほら彩花、見ろっ、おにだぞー!」


 母と交代した父が彩花に向かって手を大きくあげ、怖い鬼を演じて彩花を追いかける。


 「きゃっー、怖ーい!」


 「待ちなさーいっ!」


 彩花に追いつかないよう加減しながら走る父。それをキャッキャと叫びながら逃げる彩花。


 そんな光景を見ながら、俺は母と話していた。


 「稔、ありがとうね」


 「え?」


 「お父さんから聞いたわ。稔が家事を一生懸命手伝ってくれたおかげで、この一ヶ月乗り越えられたって」


 母は嬉しそうに、俺を真っ直ぐ見て言う。


 「そんなことないよ。お父さんだって家事いっぱいやってたし、仕事で疲れてるはずなのに、やらなくちゃいけないことがあったら、俺には早く寝なさいとか言っといて、真夜中まで洗濯とかやって」


 俺がそう言うと、母はふふっと笑った。


 「あの人、不器用なところあるからね。あたふたして不恰好なところもあるけれど、やる時はしっかりやってくれるかっこいいお父さんよ」


 「ホントだよ」


 見れば、父は彩花を肩車して走り回っていた。明らかに疲れた様子だったが、彩花がもっと!と言えば、父は疲れた顔を一切見せずに走り続けた。


 少し可哀想に思えたが、そこでも少し不器用な父に、思わず笑ってしまう。


 「勉強は大丈夫なの?」


 「大丈夫、任せてよ。この前のテストでも学年で二〇位だったんだから」


 「え、凄いじゃないっ、前よりさらに順位上げたわね」


 「そうだよ。母さんを少しでも安心させたくてね」


 母は微笑んだ。そして、俺の頭を撫でて、改めて俺に言った。


 「稔、本当にありがとうね」



 ***



 数週間後。


 学校が終わり、俺は帰宅した。

 鍵を開けて扉を開く。


 「ただいま」


 いつもなら聞こえる母と彩花の、おかえりという言葉が、今日は帰ってこなかった。


 「母さん?彩花?」


 俺は玄関で靴を脱ぎ、リビングへ向かった。


 (——!?)


 異様な匂いがしていたが、それより俺の目に飛び込んでいた光景に、絶句した。


 「はっ……?」


 母と父が、血まみれになって床に倒れていた。  

 

 見れば、父は首元に何回も刺された跡、母は腹部に何度も刺された跡があった。


 俺は後退り、思わずその場に尻餅をつく。


 母と父には明らかに意識がない。腰が抜けてしばらく動けなかったが、その間に母と父の状況を理解した俺は、しかしその現実を受け止めきれなかった。


 (そうだ、彩花は……?)


 俺は自分の頬を何度も叩き、抜けた腰を叩き起こした。家の中を探そうと立ち上がる。せめて彩花だけでも……。


 と、振り向こうとした、その瞬間だった。


 「お兄……ちゃん……」


 不意に後ろから俺を呼ぶ声が聞こえた。振り返れば、そこには彩花が突っ立っていた。しかし俺は、彩花には近づけなかった。そこに彩花がいるのに、近づくことが出来なかった。


 彩花の姿を見て、全てを悟った。


 ——彩花は、俺の母と父を刺し殺した。

 

 

 



稔の家族に一体何が——

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