第120話 投げられた賽
夕日が大地を橙色に染め上げた頃。
賢術の学府『万』、円卓の集会場。
「……虎殿公が、亡くなられた」
寂しげにそう告げるのは、本郷哲夫である。
彼の目の前の円卓には、圭代や柊ら教諭陣が座しており、哀しみを噛み締めていた。
そして円卓の一番向こう、哲夫と相対するように腕を組みながら座っているのは、深駒篠克である。
「……葬儀は、いつに」
ただ静寂に声を上乗せするかのように、圭代が静かに問う。
「琉那様がお決めになると言う話だった。急逝だったもので、琉那様とて正気ではいられないはずだが、そんな中、寿孟主帝と共に本部の行末をより良きものにするとご表明を成された」
虎殿公の令嬢たる笹木琉那の、確たる意志を感じたと哲夫は今、口にしたのだ。
「葬儀も行えず、悼みの癒えぬ中、前を向いて本部を導かんとする若き者らを、私は一人の賢術師として支えたいのだ」
言葉は軽率ではないのだろう。
俯く哲夫の額には、その言葉に緊張感と責任を孕むことを証明するかの如き滲み汗が滴っていた。
「具体的に、私たちに何が出来ますか…?」
哲夫から見て円卓の右手に座っている美乃梨が、手を上げながら問う。
「……それを、考えるためにこの会議を開いた」
「まだ分かってないわけね」
食い気味に柊が呟いた。
分かってはいたけど、と言いたげな様子で後頭部で手を組み、背もたれに体重を乗せている。
「この『万』の学長として、不甲斐ないのは承知だ。我が旧友、篤馬波論も、あれ以降一人で行動すると言って聞かず、最後まであやし付けることは叶わなかった」
悔しさを噛み締めるかのように拳が強く握られる。
「篤馬波論って、確か忌み子だって話よね?私も今日は任務に出てて、いまいち情報を聞けていない状況なのだけれど……」
再び美乃梨が疑問を呈す。
「みのりんだけじゃないよ。まぁ、理事長は大方知っているけど。まとめて説明した方がいいな」
そう言いながら柊は席を立ち、円卓の外側を道なりに歩いて哲夫の横へ。
「えー、会議を開いて一丁前にみんなの前に駆り出たボンクラ学長に代わって、一歩先まで考えている俺が喋りまーす」
「何か、考えでもあるのかね…?」
言葉では答えず、柊は含みのある笑みのみを哲夫に返した。
「とりあえず状況説明だけしますね」
そう前置き、柊はこれまであった出来事の詳細を説明した。忌み子、篤馬波論とのやりとりの数々、本部が各機関へ伝達したこと——話を聞く教諭陣は各々、うんうんと頷きながら、真剣に傾聴していた。
「——という感じで、全部話しましたよね?」
「抜かりはないと思うが」
浮かない顔をしながら哲夫が答えると、柊は再び前を向く。
「本部からの通達に関しては、俺にも関係があるのでね。ましてや、本部が忌み子の殲滅を望むのなら、そのうちこの『万』にも火種が飛ぶことになりましょう」
柊は言った。
「『万』が戦火に飲み込まれるのなら、俺は全霊を賭して生徒たちを守ると決めています。それに、刺し違えることになろうとも、本部を滅ぼすことが未来のためになろうものならば、それも厭わないことにもしているんですよ」
場がしんと静まり返る。
俯き加減に、されど真っ直ぐ前を向いて発言する柊の姿勢に、思わず皆が背筋を伸ばした。
「本部の全ての者が、悪事を企てているわけではないでしょう。それもまだ突き止められぬ中、罪なき賢術師まで巻き込むと言うのならば、私は波瑠明の意には従えない」
静寂を突き破るように、圭代が言う。
「波瑠明の力ならば、全世界の賢術師の力を総括したとしても、敵わないでしょう。これだけははっきりと言えます。ですが、力ではどうにもならぬ物にまで、亀裂を入れるべきではない——」
真剣な物言いだった。
「もしもの話ですよ。でも、本部の全ての者が悪事を企てているわけではないのなら、言い返せば、本部には少なからず抑止力が潜んでいることになる」
「そうですが……」
圭代は言葉を濁した。
「虎殿公が亡くなられた今、上層部は実質的な無法状態となったでしょう。それに、先の蓋世樹任務でも要人たちが相次いで致命傷を負う事態——本部も気が気じゃないのは確かです」
本部の行末を案ずるように、圭代は声を張る。
「波瑠明の言うように、本部が我々に戦火を齎すのなら、我々は全力を賭して生徒を守る必要がある。それは紛れもないことでしょう」
「それを起こさせないことが大切、と言いたいのだろう。とうに分かりきったことだ」
食い気味に久留美が口を挟む。
「波瑠明と圭代、どちらの言い分も理解には足る。だが私情を挟むことは看破できぬ。何せここらから先、我々一人一人の言葉や行動は、賢術師たちの未来と威信へのベットとなるのだからな」
権威の象徴たる虎殿公の亡き今、たった一人の言動は、賢術師の将来に影響を与えかねない状況となった。
寿孟主帝では本部を総括するのに時間を要することは皆が承知している事実だろう。
「『万』は抑止力になる必要がある、というわけだね」
円卓の深奥で、篠克が静かに呟いた。
全員が彼へ視線を向ける。
「本部への疑念に関しては、既に私も話は受けています。その上で、一つ提案があります」
改まって、篠克は説明を始めた。
「本部に内通者を作る——そうすることで、まずは本部の実情を知ることが必要だ。我々の行く末を案じる以前に、状況を知らないことには下手に行動は起こせない」
理路整然と篠克は言う。
「確かに、現実的に考えればその案が最も妥当でしょうが……当てはあるのですか、理事長」
それまで話を静聴していた迦流堕が疑問を呈す。
「当てならある。我々の信頼を得ており、かつ本部にもある程度精通している人物がね」
それを聞いた柊がまるで、その言葉を待っていたと言わんばかりに話に横入りした。
「いや、俺もそれは考えなかったわけじゃないですよ。でも、あまりにも実行難易度が高すぎる」
「ほう。君ともあろう者が、そんな弱音を吐くとは。明日は季節外れの雪が降るかもしれないね」
困った困ったと頭を抱える演技をしながら、篠克は柊を眺めている。
「篤馬波論を使い、本部の情報を炙り出せると考えているのなら、それは柊先生の言う通り、不可能に近いでしょう」
苦言のように哲夫が言葉を漏らした。
「不可能に近い——とは、君たちの様子から見てみれば、合理的ではない。なぜ、不可能だと言わず、不可能に近いと濁すのです?」
極めて重低なる声が、この場を支配していた。まるでその意を、この場の者たちに強制的に植え付けるが如く。
「つまり、彼を使役さえすれば良い。多少彼の身や心が裂かれようとも、手段は問わない。それでこそ、真に合理的と言える」
「り、理事長…忌み子でも、彼は人間であります。我々の未来への投資として彼の心を壊してしまうと言うのは、あまりに人道からは外れたことと言えます」
哲夫が反論するも、それに退くわけもない篠克が、冷酷に言葉を返した。
「ご安心を。既に賽は投げた。篤馬波論を、我々に従順な犬とすることこそ、我々がこの世界で生き残る術なのですよ」
冷酷なる深駒篠克の投げた賽とは何なのか——