第119話 死寂の中の余光
外を歩く者たちの足音が、まるで雑踏の中にいるように鮮明に聞こえていた。室内にいるというのに、不自然に耳朶を叩くほどに。
「……儂は、恵まれておるな」
天蓋を仰ぎ、白髭を摩りながら虎殿公はそう呟いた。天蓋を仰いでいるのは、溢れんとする涙を必死に抑えているからだ。
それほど、波論の言葉が強く刺さったのだろう。
「死ぬ前に、お前の声をもう一度聞くことができたのは、僥倖だったのかもしれんのぅ。それほど、儂はお前たちに酷いことをした」
「もうあんたを卑下する言葉は聞きたくねぇ。それ以上はその腹みてぇに喉も逝くぜ」
心なしか、波論の声は震えているように聴こえた。そんな言葉を聞き、虎殿公は柔和な微笑みをたたえ、絞ったような声を発する。
「ほっほっ……」
彼は弱々しく笑っていた。
「今か今かと訪れんとする死に、儂は必死に抗ってきた。じゃが、お前たちが……こうして会いにきてくれたのならば——」
そこで、言葉は途絶えた。
「……虎殿公?」
「……父上?」
突如優しい声色は途絶え、静寂がこの場を包み込んだ。
目を細めて静かに虎殿公の言葉を受け止めていた者たちが、その瞬間、おそるおそるその面を上げた。
どこか様子がおかしい。
それを察した琉那と哲夫が、目を丸くして虎殿公を仰ぐ。
「こ、虎殿——」
天蓋の下で、静かに目を瞑り俯く老体。
まるでそれは、尽きし灯火の如く——。
「……!?ち、父上!!」
琉那が最初に身を放り、虎殿公の元へ駆けた。
「る、琉那さんは他の者を!急いでっ!!」
続けて哲夫が虎殿公の元へ走り、そう琉那に言った。琉那は焦った様子で取り乱していたが、深呼吸をして何とか平静を取り戻す。
「わかりましたっ」
琉那が救護を呼びに走ると、哲夫は天蓋付きのベッドに半身を乗せ、そこで猫背に頭を垂れる虎殿公の腕を上げ、担ぎ上げようとする。
「くっ……波論——」
妙にその痩せ細った身体が重く感じた。
「ったくよ、人間一人持ち上げられねぇでどうすんだよなぁ」
溜息を吐きながら気怠げに立ち上がると、波論は哲夫の元まで歩いて移動する。
「どいてろ、ハゲ」
「あ、あぁ……」
哲夫は心配そうに、俯いたままの虎殿公を見つめながらも波論へ場所を譲る。
すると波論は、慣れたような手つきでベッドから虎殿公を降ろし、その手を自身の肩に回した。
「あんたのお守りは、これが最初で最後かも知れねぇぞ」
波論はまるで軽々しく虎殿公を背負い上げると、そのままベッドを降り、歩いてゆく。
「波論。ど、どこへ連れて行く気かね」
「分かってんだろ。ジジイは——」
波論は言葉を止めた。
そして虎殿公は床にそっと降ろし、猫のように爪を引っ込めた後、指を首筋に当てる。
しばらく目を瞑りながら指を当て続けると、波論は静かに言葉を溢した。
「——たった今、寿命で死んだぜ」
はっきりとした波論の物言いに、哲夫が思わず絶句する。そしてその場で崩れ落ち、目の前の光景を、ただ茫然と見つめていた。
「こちらですっ!!」
僅か数秒後、座敷の間の敷居を踏んだのは琉那と、彼女に連れられた二名の賢術師である。
琉那は座敷の間に入るや否や、ベッドの前で横たわる虎殿公を見た。
「こ、虎殿公っ!!」
二名の賢術師がその名を呼びながら、波論との間に割り込んで、老体の首筋に手を触れる。
「……これは」
救護の賢術師は、触れた手を離す。
そして、徐に琉那を振り向いた。
「琉那様……虎殿公は——」
賢術師は、口を閉ざした。その事実を口にしたくなかったからだろう。
「なに……なんだというのですかっ」
薄々分かってはいただろう。何より、なにか淀んだ感情を孕む琉那の表情が、それをものがたっていた。
「……天へと、旅立たれました」
言葉を聞いた琉那が、その場に膝から崩れ落ちた。
「そんな……父上、私…まだ……」
琉那はすぐそこへ横たわっている虎殿公の元まで自身の身体を引き摺って行く。
「る、琉那様……」
救護の賢術師が見守る中、琉那は虎殿公の手を握る。そしてその場に座り込み、呟いた。
「まだ……父上に恩返し出来てない……じゃないですか……。私を…置いていかないで……」
琉那は、虎殿公の胸に顔を埋め、部屋いっぱいに響き渡るほどの号哭を漏らした。
その様子を、波論はただ静観していた。
永き時を背負ったその眼差しは閉ざされており、歩んだ歳月を語るように刻まれた皺がひどく目立つその身体には、よもや以前のような威厳と正気は感じられなかった。
「……ハゲ、行くぞ」
唐突に波論は、哲夫を呼ぶ。
「は?」
波論の言葉に、苛立ちを孕んだような言葉がこぼれた。哲夫を含め、この場のほぼ全ての者が、立ち上がる波論を睨む。
「貴様、正気か。虎殿公が、目の前でご急逝なされたのだぞ」
「琉那様のお気持ちを、考えてはどうだ」
そう言う二名の賢術師が波論に迫る。
「満足に葬式も出来ねぇうちは、俺ぁこのジジイに線香をやるこたぁ出来ねぇよ。早いとこ、事を終わらせて、その後弔ってやるだけだ」
顔を伏せ、波論が言う。
「貴様…!虎殿公に対する敬意というものが——ごふふっ!?」
瞬間、一人の賢術師が床に倒れ込んだ。その顔の頬には、殴られたような痕がしかと刻まれている。
「敬意がなんだっていうんだよ。俺ぁなぁ……」
波論が伏せていた顔を上げる。
同時に、ボロボロと大量の涙雫がこぼれ落ちた。
「これでも唯一慕ってたジジイでなぁ。こんな感情も初めてだ」
「き、貴様!?あろうことか我々に暴力を振るうとはっ!!」
「どんな立場から知らぬが、唯一慕ってたという相手に対する態度がそれとはお門違いと良いところだ!分かっているのか!?」
声を張り上げる賢術師。
だが、波論はそれ以上、何も喋らなかった。
「は、波論っ!」
哲夫が波論を呼ぶ。
波論はなにも言わぬまま、哲夫を振り向いた。
「ぬ……っ」
哲夫が思わず押し黙る。波論の表情に、彼は畏怖を覚えたのだ。
涙で濡らした頬、されど頬を濡らす涙を流す双眸は狂気の如く血走っていた。
そう。
決意が、そこにはあったのだ。
「……虎殿公が守りたかった本部は、こんな姿じゃねぇ。少なくとも、罪もねぇ奴を殺すような場所ではなかったはずだ」
波論は哲夫へ背を向ける。
「虎殿のジジイも、こんな状態の本部を置いて逝っちまって、雲の上じゃ笑っていられねぇだろうが……」
「波論……」
波論の肩は震えていた。鼻を啜る音が幾度も響くなか、琉那が真っ赤にした顔を上げた。
「……波論さん……」
震えた声で、琉那がその名を呼ぶ。
「こんな状況って——」
「あんたが知るべきじゃねぇ。少なくとも……」
波論は救護の賢術師二名を睨みながら言葉を続けた。
「本部の賢術師がいる前ではな」
二人の賢術師は顔を見合わせなが、まるで覚えがないと逝った様子で首を傾げる。
「なんの、話だ?」
「さぁ……」
溜息を吐き、波論は再び琉那を振り向く。
「あんたは、ジジイの術印を継いでんだろ」
涙を拭いながら、琉那は無言で頷いた。
「なら、そのうちわかる。時間は問題だがな」
どこか含みのある言い方で波論はそう言い残し、直後、座敷の間の外へ歩いて出て行った。
「……なんなんだよ、あいつは……」
「琉那様、お気になさらぬよう。すぐさま、手配は致しますので——」
「……いいえ」
二人の賢術師の言葉を遮り、琉那は立ち上がる。
「る、琉那様?」
「いいえとは……?」
涙を拭い、琉那はキッと賢術師を睨んだ。
「私が、葬儀の時期や形式については検討致します」
何かを想う表情が、そこにあった。
虎殿公、急逝。
本部と、彼らの行く末とは——




