第115話 次世代の者たちへ
本部帝郭殿、某所。
厳かな黒緑の外套を羽織るとある男が、湖の中心にまた一本、佇む木の橋に立っていた。
彼の周囲に色という色はなく、建造物の一つすら見当たらない。
視界を向けても、木の橋という目安がなければ方向感覚を失ってしまうほどだろう。
文字通り、漆黒の世界。
外界にあるような色めきは褪せており、そこにあるのは、己を飲み込まんとする闇のみだ。
「憤っているな、左座」
彼の目の前には、たった一隻の箱舟があった。そこには一人の男が座している。
だが、姿は見えない。
ここはただ漆黒の空間なだけでなく、存在している者たちの視界さえ曇らせ、まともに機能させぬのだ。
彼は言った。
「左座の奇跡は決して易い代物ではないだろう。だが、左座。虎殿主帝——否、前主帝が昏睡状態に陥ってしまわれた今、本部は方針を改めなければならない」
目の前の、もう一人の男に対して。
「これからは……うぬの時代なのだろう……」
箱舟に座すもう一人の男、千韻廻途が言葉を溢した。
廻途は湖に浮かぶ箱舟にて悠然と座り尽くし、目の前の男に対して険しい表情を向けていた。
「……そうだろう、寿孟主帝」
千韻廻途が目の前にするのは、本部帝郭殿の現在の最高権力者、寿孟主帝であった。
「いやいや。まだ、かの虎殿公より授かったただの肩書きに過ぎない。虎殿公の意志を継ぎ、真にあなたや、その他の皆から主帝だと認めてもらえるまで、この身は水面下で精進していく」
「機の……場所へなぜ赴いた?」
口調と重低とも言えるほどの声に似合わず、その言葉は鋭く首を刺すような予感を感じさせた。
言葉を発するのと同時に、千韻廻途が立ち上がった。
「その威はいささか鬱陶しくもあるが、見事なものだ、千韻左座」
一瞬、空気が揺らぐ。
最高権力者たる寿孟主帝がいるにも関わらず、その場は既に、千韻廻途の威厳に支配されていた。実際に揺れるような空気が、それをものがたっている。
「奇跡を欲せぬ者……此処へ立つを許さず……。うぬが主帝とあれど、機の……行いを妨げるのならば、一切の情けをかけることは出来ぬ——」
千韻廻途が持つのは、四葉のクローバーを模したような鋼鉄の塊。漆黒の中に細かい白い斑点のある、黒曜色のそれは、彼の武器——純魔のケトルベルである。
「以前よりも極限まで精錬されたケトルベル——。だがやはり、奇跡を与えし《黒白の箱舟》の名には、どうにもそぐわないね」
純魔のケトルベルを指し示しながら、寿孟主帝は意を述べた。それが大層不愉快だと言わんばかりに、廻途は表情を険しくする。
「機に似つかわしくない……それは何より、機の実感だと言えよう……。所詮はケトルベル——万人を殺戮するには如何にも血に穢れ過ぎんね……」
引き締まるギュギュッという軋み音がなるほど、廻途は純魔のケトルベルの取っ手を握り締めた。
「……血に穢れ過ぎた。だが、故に機は……今ここにいる……」
その声だけで、空気が再び揺れた。
「虎殿公が主帝の座を……手放され……それは、次世代の者へ……受け継がれた。……機には知れぬ……なぜ、人は、人へ受け継ぐ……?」
「なんとも、左座らしい問いだな。話したければ、まずこの身への殺意を、その興味で覆い隠すことだね」
物分かりよく、千韻廻途は純魔のケトルベルをだらりと下げた。その視線は大地を焼く斜陽の如く、真っ直ぐに寿孟主帝に向かって疾走している。
「それが、人間の性、だからだね」
淡々と用意した回答を、寿孟主帝は述べる。
「性……とな。なるほど——」
千韻廻途は、下げた純魔のケトルベルへ視線を落とす。次の瞬間、千韻廻途の顳顬に、血管が浮き出た。
同時に、千韻廻途の表情は般若の如く、されどどこか怒りとは別の感情に満ちたものと成る。
「即ち、人間が表にはめくり出さず、常にその懐に有す醜悪な欲望——それは、次代の人間へ役目を継ぎ……己は、不平不満なく怠け暮らしそべること……と、言うことなのだな?」
「少々、我々とは違う解釈をするね」
その両眼は血走っている。
千韻廻途は般若の如き憤怒の面を、真正面へ向けた。
「何も違わぬだろう……。否。それが、価値観というものだ。人間の性……とは即ち、人間の……本質的なものを指す」
「確かにそれはそうだが——」
「受け継ぐことが、人間の性であるが故に……賢術師は時代と共に……衰退してきた。機はそれを咎めている…何故に、人間の性というものは、うぬらの力を衰退させるのか……」
漆黒の世界に、ただ一つの断言が木霊した。
「人間の性——それは哀れにも、愚劣な定めだ」
空間をも斬り裂かんとする言葉だった。
「人間の存在そのものを否定しているのか?左座。仮にもあなたは、人類を守る賢術師という立場。それぞれの価値観を持つことを否定しているわけではないが、左座よ——」
千韻廻途の聞き逃せぬ言葉に苛立ちを隠せずにいる寿孟主帝が申し立てた。
「力に溺れた時こそ、言葉は強くなる。それ自体が、ときに人間の性であることを肝に銘じておくことだ」
それは戒めに過ぎない。千韻廻途の言葉を聞いた彼だからこそ言える、皮肉めいた戒め。
寿孟主帝自身、実力では千韻廻途の足元にすら及ばないと自負している。だが千韻廻途よりも本部においての権力を持つ者として、叛逆される可能性を度外視してまで、彼は左座へ諭そうとしたのだ。
「ほう……。面白いことを言う……」
両者は身を引かない。
そのまま、一〇秒ほどが過ぎ去った。
「——虎殿公は隠居なされた。そして、病衰のため床に伏せておられる。それを必死に看病なさる御息女様も立派なものだ。自身がご多忙の中、婿君様と協力し、虎殿公への恩義を返上致す、と仰っていた」
寿孟主帝は一呼吸置き、続けて言った。
「この身など居なくとも、次世代への憂いは無用だ。人間は弱い。弱いが、それ故に、奥に秘めたる強さが現れた時に輝くのだろう」
千韻廻途は主帝の話を黙って聞いていた。
「琉那様、栄汰殿は、今後の賢術師たちの在り方について考えておられる。この身もそれを憂いていたが、あなたの思うほど、次世代の者たちは弱くない」
思慮するように俯くと、千韻廻途は徐に顔を上げて口を開いた。
「先見の明ともいうべきか……そこまでうぬが言うのならば……機も考え改め、憂いは無くすべき……なのかも知んね……」
黒霞が掛かった視界ゆえに千韻廻途の表情が寿孟主帝には見えない。だが、僅かに緩んだ口調から、千韻廻途の今の表情を予想することは出来る。
価値観はそれぞれであれど、根底にはやはり、人類の行先を憂う心理があるのだろう。
もっとも、千韻廻途の言葉の節々に感じるものがある。
「過日……ここを訪れた忌み子は、息絶えたのだろう……。だが、かの忌み子は、その特殊な体質と性質ゆえ……容易に滅ぶような、者でもあるまい」
唐突に、千韻廻途が話を切り出した。
「——わかるのか?」
「機の奇跡は……与えた者が死に近づくほど、光を増してゆく……。機の確認できる奇跡が、燃え尽きたそのときは……その者が死に絶えた証だ……。先刻より、右座のものも……風原楓真のものも……その光を燃やしつつある——」
千韻廻途は頭上の空虚を睨んだ。
「——この帝郭殿の……俊傑なる者たちが……次々と死の淵を彷徨ってゆく。次世代に託す以前に……この世代が消え去ること。……その憂いを拭うことは出来ぬね……」
不穏な余韻が、寿孟主帝の耳にしかと刻まれた。
寿孟主帝、そして千韻廻途が心理に秘める未来の形とは——