第107話 檻中、死闘の果て
蓮辺地区、蓋世樹下北西。
(ん?[次元転々]が上手くいかない……?)
まだ刈馬と謎の仮面の男が戦っていた地点までは数十メートルほどあるが、なぜか圭代の転移はうまく行かずに終わった。
(走りますか)
圭代はこれ以上は転移が上手くいかないと早々に割り切り、そこからは徒歩で向かうこととした。
様子を伺いながら小走りに刈馬の元へ向かうこと数分。
「……刈馬さんっ!……くっ……⁉︎」
圭代がそこで足を止めた。
(この感じ……。場の空気がやけに重く、乱れています。単なる戦闘で、ここまで大気が乱れることがありましょうか……⁉︎)
圭代という異物がその場に足を踏み入れようとする瞬間、それを拒むようにバチバチと小さな稲妻が迸るのだ。
まるでそこにいる当事者たち以外の者は侵入することすら受け付けぬと言った様子で。
「くっ……刈馬さんっ!聞こえますかっ!」
小さき稲妻が身体に纏わりつくのに気を向けず、圭代は刈馬の元へと歩く。だが、その一歩一歩は並の気力で出せるものとは程遠いものであった。
(これは……その場に残留した術水が乱れ荒ぶっているのか……こんな事態は想像できていませんでしたが、私が確認に来てよかった……。眞樹くんや託斗くんだとしても、この場所に近づくだけで命に危険が伴うでしょう……)
圭代の身体に纏わりつく小さな稲妻は圭代の服を少しずつ焼いていた。
ただそこに身を置くだけで、熟達した賢術師の肉体をも蝕む気配。それがこの場の狂気を何より雄弁に示していると言えるだろう。
(……⁉︎刈馬さんっ……‼︎)
圭代は目を見開いた。
焼き爛れた目先の大地に大の字に転がる、刈馬の姿を彼は見た。
「くぬぬっ……‼︎」
狂乱の如き大地を凄まじき気力で走る。
圭代は走ることによって、そこに残留する小さな稲妻が我が身を削ることなど意に介さず、ひたすらに足を運ぶことだけに置けうる意識の全てを捧げている。
(全身を削るような小さな稲妻のようなもの。それがこの場の大半を占めている……)
だが、逆に圭代にとっては好都合とも言える。他の賢術師なら、柊波瑠明ほどの賢術師でもなければこの場に残り続け、ましてや動き続けるなど決して成らぬ芸当だろう。
だが日頃、《次元印》による肉体増強を行なっている圭代にとっては、別段苦でもなかろう。数秒前は苦悶を浮かべていたその表情にも、周囲に段々と適応したためのいささかの余裕が生まれていた。
「刈馬さんっ」
息を少し切らしながら走って来た圭代が、周囲へ視界を巡らしていく。そこ一面には、焼けて黒焦げとなった大地が広がっていた。
その中に、横たわる人影と、膝をつく人影を見つけわ圭代がそっと近寄る。
「……刈馬……さん……?」
吐血を浴びた口周り、光を失った僅かに開いた目、心臓部をぶち抜かれた穴。見るに無惨な刈馬の姿を、圭代は見た。
「……一体、何が………」
刈馬の首筋に手を当て、圭代は脈を確認する。その手が触れる人肌に温もりも鼓動も無く、ただ死の静けさだけが漂っていた。
「まさか、刈馬さんが……。本部の右座たる方が……」
まるで信じられぬと言った様子で、圭代は背後を見た。そこには、男が跪いていた。首がガックリと折れ曲がっており、気絶しているのか、絶命しているのかは定かではない。
(心臓部を抉られている……恐らく死んでいるでしょう。ですが、死してなおその身体から発せられるのは、この場に漂う小さき稲妻でしょうか……)
「《次元印》四式、[無限次元]」
詠唱と共に圭代の足元から透明の領域が広がる。それは現実世界に別次元を作り出し、己が存在する空間レベルの底上げを行う術式にして、周囲の環境を緩和しうる効果も持ち合わせる領域。
小さな稲妻が常に漂い、ただそこにいるだけで圭代の肉体をも蝕む空間を緩和するために、圭代はその領域を展開した。
(いずれにせよ、常に小さい稲妻を放ち続けるあの男の身体はそこにあるだけで、蓋世樹や蓮辺地区が危険を被りかねないのは確かですね)
小さな稲妻を放っている跪いた男。
彼が如何なる力を持っているのか、境内にとっては未知数だろう。だが、圭代はすでに身肌を以て感じていた。
(とても生物から感じられる雰囲気とは思えません……。死してなおこの男、これほどの圧と気を放ち続けているとは……‼︎)
その男を視線に収めているだけで、圭代の額を止まらぬ汗が滴ってゆく。
このようにぐったりと蹲い、動かぬ姿でも無様には見えない。死しているはずなのに、その姿は生者を凌ぐ威を纏い、誰も迂闊に近寄ることを許さぬほどの圧倒的な存在感を放っているのである。
「右座……」
圭代はその場で片膝を地面につき、両掌を合わせる。
「どうか、冥途にて穏やかであられますよう」
ただ合掌。
その一瞬に、圭代なりの深い追悼が込められた。
***
山蓋地区、蓋世樹下。
「命を捨てろ賢術師どもっ‼︎貴様らはやがて滅びる。我々の時代の到来はすぐそこだ」
屍轍怪が重力を操り、大気を歪ませる爪撃を繰り出す。その度に空気は揺らぎ、爪撃を受け止める楓真の身体を壊さんとしていた。
「蓋世樹は命を吹き返すほどの、神秘とも呼べる栄養を全身に蓄える樹木だ。お前たち骸どもはそれを利用し、ここら一帯の人間の全滅を目論んだ」
爪撃が当たらなくとも、重力が歪ませる空気に巻き込まれれば瞬く間に身体は壊れるであろう。すでに楓真の腕や足は数回ほど巻き込まれているはずだ。
「もう分かっている。お前たちはこの蓋世樹の地下に形成される根に骸の卵らしきものを植え付け、蓋世樹の栄養を吸い取り大量の骸を生み出している」
重力の歪ます大気に巻き込まれながらも楓真の身体に負傷が現れないのは、彼が纏う純赫の魚鱗膜があってこそのものだろう。
《空鱗印》の一式、[逆鱗]の効果は絶大。
全身に纏えるものを手足の先に全てを注ぎ込めば、それの強度が著しく向上するのは道理だ。
「ここのところ山蓋、蓮辺、水園地区の蓋世樹の根本の緑が枯れたのも、それが原因だろう。樹木の根幹たる地下の根が侵されれば、その上の樹木全体に影響を与えるのは当然だ」
水園地区にて細川宏紀が突き止めた事実に関しては、この任務に携わっている賢術師全員に伝達されている。
「くくく、くははは。それを突き止めたからなんだと言うのだ、賢術師。俺たちの頭上、蓋世樹の周囲を囲うのは貴様らが展開した結界が何かだろう。どの道、地下から産み出される骸如きに結界を破壊する力などありはしない」
屍轍怪が死角から蹴りを繰り出した。それを受け止めた楓真の身が僅かに下がる。
「すでに破綻した策に縋り付くような愚行には走らん。この結界の外で、すでに何かが起きているのだとしたら?貴様らのやっていることは、ただ骨を折るだけの無駄足掻きに過ぎん」
嘲笑するように屍轍怪が言う。
「そして貴様らもこの無駄足掻きの末に死にゆくこととなる。結界を張って俺を閉じ込めていい気になっているかもしれんが、檻に閉じ込められて逃げ場がないのは貴様らも同じだ‼︎」
楓真が身を退いたことで僅かに隙が生まれ、屍轍怪がその場で魔源の弓に黒き焔の矢を番え、それを引く。
「《呪滅穿矢》」
目にも追えぬ速さの黒き焔の矢は楓真の腹部を狙う。懐に入ればどこよりも対処のし難い場所を屍轍怪は狙った。故に楓真の意識は、必ず一瞬は腹部へ向く。
それを狙い切った屍轍怪が矢を放つのと同時に距離を詰めた。
「ふっ……‼︎」
楓真は[逆鱗]の効果を胸から腹部にかけて張り巡らし、黒き焔の矢を迎え撃つ。
(矢を度外視している?なるほどな。その[逆鱗]とやらの強度に余程自信があると言うわけか)
「屍蘇操術、《執禊呪爆壊》」
詠唱と同時に、楓真との距離を詰めた屍轍怪が至近距離で黒き爆炎を構築する。今にも楓真を飲み込まんとする距離でそれは燃え盛り、表面にうっすらと人の顔のような模様が浮かんだ。
「健闘を讃えよう、賢術師。だがここで死ぬ」
黒き爆炎は膨れ上がり、放たれるのではなく、その場で楓真を飲み込み爆散した。
本部右座の凄惨なる姿を見た圭代。一方で、未だ続く山蓋地区での死闘の果ては——