05 滅びろ浮気野郎
隣人・英田鈴蘭と彼女の部屋で昼食後、ホットティーを飲みながら雑談する中で、ケイは英田自身に関する様々な情報を得ると同時に、彼女に対する好感度も少しずつ上がっていった。
英田はケイより六歳年上で、西区内のアパレルショップのアルバイト店員だ。基本的に日曜日は出勤なのだが、今日は恋人──既に〝元〟が付くが──と別れ話をするため、以前別の日に休みを代わってあげた事がある店員に、今度は自分が代わって貰ったのだという。
「緋山さんの知っての通り、話し合いというより、言い争いになっちゃったんだけどね……」
英田が元恋人・東拓篤と交際を始めたのは、二年前の春。マッチングアプリで知り合い、三回目のデートの後に東から正式に交際を申し込まれた。
正直に言えば見た目はあまり好みではなかったが、常に面白い話題を欠かさず、気遣いも出来る東にすっかり惹かれていた英田は、二つ返事で承諾した。
東の最初の浮気が発覚したのは、その年の秋だった。
忙しなくスマホをチェックする事が多くなっているのが気になり、悪いとは思いつつも、本人が席を外した隙にトークアプリのやり取りを勝手に閲覧したところクロだった。
ほんの出来心だった、二度としないと必死に謝る東を許した英田だったが、結局その後も繰り返され、つい先日四度目の裏切りを受けた事で、とうとう堪忍袋の緒が切れたのだった。
「あいつ、別れたくないって駄々こねて。緋山さんが戻って来るほんの数分前に、しぶしぶ諦めて帰って行ったけどね」英田は小さく溜め息を吐いた。
「その……よく三回も許せましたね」
「うん、だよねー。我ながら自分の寛大さとアホっぷりにビックリだわ。二回目の時点で友達に止められたのにさー。二回目の浮気相手なんて、あいつと一緒になる気満々だったみたいだし、譲っときゃ良かったなって」
英田は苦笑し、紅茶に口を付けた。
「わたしは一回目で許せませんでした」
ケイがポツリと言うと、英田は大きな目を更に見開いた。
「え、緋山さんも?」
ケイは優一郎の裏切りと別れまでの顛末と、ついでに仕事を辞めた事まで英田に話して聞かせた。身内以外に打ち明けるのはこれが初めてだ。
「うっわ、マジか……そんな事ってあるんだね……」
「あれ以来、一緒に出掛けた友人たちには連絡してません。気まずくって仕方ないですし。いつかまた東京に行く事があっても、あの店の周辺は通りたくないです。トラウマってやつですかね」
「仕事でも色々あったんだもんね。本当に辛かったね」
心の底から相手を労わるような英田の優しい口調に、ケイの目頭は熱くなり、鼻の奥がツンとした。
「滅びろ浮気野郎」
堪え切れないかもしれないと思い始めた時、英田がドスの利いた声で呟いた。ポカンとするケイに、英田はいたずらっぽく笑いかけた。
「そう思わない? 隕石降ってきて、浮気する人間だけ恐竜みたいに滅びろって思わない?」
ケイは小首を傾げ、
「うーん……むしろ、降ってきた隕石を拾って、直接殴りたいですかね」
英田は一瞬の間の後に噴き出した。「緋山さん怖あっ!」
「その方がスカッとするとは思いません?」
「超思う」
二人は顔を見合わせ、子供みたいに笑った。
「まあさ、いつまでも引き摺ってちゃ、精神衛生上良くないし、時間だって勿体ないよ。うん」
英田は自分に言い聞かるようにそう言うと、ゆっくり立ち上がった。
「美味しいもの食べて忘れよ! というわけで、お菓子持ってくるね」
「すみません、色々と」
「ううん全然。ちょっと待っててね」
英田がリビングにいる間、ケイは室内をざっと見回した。間取りは全く同じはずなのに、ケイの部屋よりも少々広く感じるのは、物が少ないからだろうか。
「はいお待たせ」
英田は個包装のクッキーやチョコレート菓子が入ったガラスのボウルを、静かにテーブルの上に置いた。
「ん、どうした? 何か気になる?」
「あ、いやその……散らかってなくて落ち着いた部屋だなあ、と」
「ああ、そういえば全然言ってなかったね。実はわたし、再来月に引っ越して、中学時代からの友達と暮らそうと思ってるの。それで断捨離中」
「そうだったんですか」
「アイツの今回の浮気が発覚する前から誘われてて、迷ってたんだけど、別れるの決まったから丁度いいやって」
ケイは、小学生時代に仲の良かったクラスメートの転校が決まった時の事を思い出した。ほぼ毎日一緒に遊んでいたし、中学や高校も同じ所に行けたらいいねという話もしていたので、ショックは大きかった。裏切られたという気持ちにもなった。引っ越しが終わったら手紙を送るから文通しよう、なんて言ってくれたが、結局向こうから連絡が来る事はなかった。
──せっかく仲良くなれたのにな。
「それまでの間、どうぞよろしくね」
「あ、こちらこそ……」
互いに頭を下げ、微笑んだ。
日中はまだまだ夏の陽気とはいえ、ここ数日の間に、陽が落ちるとそこそこ涼しく感じるようになってきた。
就寝前、ケイはホットミルクでリラックスしていた。膜が張るので子供の時は大嫌いだったのに、いつ頃からだろうか、気が付くとよく飲むようになっていた。
一六時過ぎに部屋に戻ってからつけっぱなしだったテレビの向こうでは、雛壇芸人たちがああだこうだと騒ぎ、スタジオの観客から笑い声が上がったが、ケイには何が面白いのかさっぱり理解出来なかった。
──日付も変わるし、そろそろ寝るか。
リモコンで電源を切り、空になったマグカップを手にキッチンへ向かおうとした時だった。
カツ、カツ、カツ、カツ。
玄関ドアの向こうで、階段を上って来る大きな足音が響いた。
──こんな時間なんだから、もう少し静かに歩けないのかな……。
ケイはこの部屋に引っ越して来てから、幸いにも同じアパートの住民による騒音に悩まされた事はなく、自分でも気を付けるように心掛けていた。遅い時間に外廊下を歩く時は特に慎重になったし、それは他の住民も同じようだったのだが。
──何か……わざと音を立てているみたい……?
カツ、カツ、カツ、カツ。
足音はケイの部屋の前を通り過ぎ、ややあってからピタリと止まった。
──英田さん?
しかし、英田の部屋のドアが開閉される音は少しも聞こえなかった。
足音の正体が気になるものの、まさかドアを開けて覗き見するわけにもいかない。ずっとうるさいわけではないのだし、過剰に気にする事はないという結論に至ると、ケイは一つ欠伸をした。
──寝よう。
マグカップをキッチンのシンクに置き、そういえばまだ歯を磨いていなかったと思い出す頃にはもう、足音の事は忘れていた。