プロローグ
西洋占星術によると、緋山ケイの属する星座は、今年一年かなり運気が高いという。
特に上半期は、恋人がいれば結婚の可能性が高くなり、仕事では昇給や新たな役職への抜擢も大いにあり得る、との事だったのだが。
「ケイ、あなたの気持ちはわかるけど、もうそろそろ動かないと」
最悪な出来事の連続から約半年。
母の言う事はもっともだとはわかっていても、ケイの精神は、未だどん底に近い位置から這い上がれずにいた。
「仕事は探してるの?」
「……探してるよ」
「男なんて、そこら辺に沢山転がっているわよ。あんな人、いい加減に吹っ切れて──」
「うるさいな!」ケイはスマホ越しに母親に怒鳴り付けた。「余計なお世話よ!」
三月上旬の事だった。
ケイは高校時代からの友人たちと三人で、久し振りに東京へ出掛けた際、恋人の優一郎を通りすがりのカフェのテラス席で見掛けた。
後ろから驚かそうとゆっくり近付く途中、店内から、露出の多い服装の女性がやって来て優一郎の正面に座った。
「優君、何か変な女の人がこっち見てるよ」
連れの女性の声に振り向き、ケイに気付いた優一郎が見せた驚愕の表情を、ケイは一生忘れないだろう。
優一郎とは同じ大学で、一年生の冬に付き合い始めた。ケイは心底優一郎を愛していたし、心の支えだった。彼も同じだと信じていた。
二人の将来に関する前向きな話が最初に出たのは昨年の冬だったが、その頃既に優一郎は、カフェで一緒だった女性とも交際していたのだった。
そして優一郎は、最終的にその女性を選び、ケイの元を去って行った。
プライベートが充実していたからこそ、何とか耐えていた仕事にも、やがて限界が訪れた。
同三月下旬。
新卒入社当初からケイを目の敵にし、事ある毎に突っ掛かってきた先輩女性社員の町田が、ある案件で大きなミスを犯した。
明らかに自分の責任だったにも関わらず、町田はサポートに入っていたケイに責任をなすり付け、怒り狂った。当然納得のいかないケイは反論し、ガキみたいに人のせいにするなときっぱり言ってやったのだが、火に油を注いでしまっただけで、町田の態度は悪化した。
ケイは上司に、自分が町田から受けている様々な仕打ちを訴えた。ところが元々町田贔屓な上司は、ケイのサポートが不十分だったのではないか、そもそも町田には日頃から世話になっているにも関わらず恩を仇で返すのかと、言い掛かりを付けてきた。
ケイの中で何かが切れた。その日のうちに別の上司に退職の旨を一方的に伝えると、翌日から出社拒否し、会社からの連絡は無視した──正式に退職を認める内容のメッセージ以外は。
それ以来ケイは、約半年の間、一人暮らししているアパートで半引きこもり状態となっていた。
心配した母や妹が時々連絡を寄越すのだが、早く立ち直れと口うるさい前者とはすぐに言い合いになってしまう。今日も母から電話があると、いつも通りの展開となり、最終的には怒り心頭のケイが二度と連絡するなと言い切ると、一方的に通話を終了させたのだった。
様々な意味で、いつまでもこんな状態でいいわけがない事くらい、ケイだってよくわかっている。しかし、心の傷は、ケイ本人が思っていた以上に深く、大きいものだった。
自分はこんなにも弱い生き物だったのか。情けない。そういった思いが、ただでさえ遅い傷口の修復を阻害していた。
ケイは、つい先程まで使用していたスマホをフローリングの上に放るように置くと、そのすぐ近くに元々置いてあった手鏡を手に取り、自分の顔をぼんやり見やった。何となく青白く、目の下には、殴られて痣が出来たかのようなクマ。
──死神みたい。
つけっぱなしのテレビから、人気俳優と女優の熱愛がどうのこうのという報道が聞こえてくる。
──幸せなこって。
ケイは手鏡を戻し、仰向けに寝転がると、両手を腹の上に乗せゆっくり目を閉じた。辛い出来事を思い返し涙するわけでもなければ、眠りに就くわけでもない。何の意味も生産性もないこの行為は、すっかり最近の日課となっていた。
妹のアイリからメッセージが届いたのは、約一時間後の事だった。