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09:女神の力



 それは食事を終えて、休息のために宿屋へ向かっていた最中のできごとだった。



「きゃあああ――!」



 絹を裂くような悲鳴が大通りの方から聞こえてきたのだ。

 穏やかだった街の空気が一気に張り詰める。混乱に陥った人々は何が起きたのか分からないまま、どこへ向かえばいいのかすら分からない状態で、思い思いの方向へ逃げ惑い始めた。

 傍らに立っていたエデュアルトが半ば持ち上げるような強さで私の腰を抱き、宿屋への道を急ぐ。恐怖で竦む足をどうにかこうにか動かしながら、喧騒が背後から迫ってきているのを感じていた。



「人が!」



 私たちの前を走っていた男性が振り向きざまに叫ぶ。エデュアルトは思わず足を止めてしまった私を背後に庇い、“それ”と対峙した。



「下がれ、オリエッタ!」



 通りの中央に立っていたのは一人の女性だった。大きな荷物を背負っているのを見るに、商人ではないだろうか。

 彼女は白目を剥いて、近くの人々に襲い掛かっていた。恐ろしい光景に目眩を感じつつ、同時に違和感を覚える。女性の体にまとわりつく、あのどす黒いオーラは、まさか――

 エデュアルトが腰に差していた剣に手をかけたのが見えた。私は思わずその手を取る。



「待って! あの人、呪われているかもしれないわ!」


「……呪い?」



 エデュアルトは困惑に言葉尻を震わせた。

 私はバクバクとうるさい心臓を落ち着けるように、意識して普段よりゆっくりとした口調で説明する。



「悪い気を体に溜め込んでる。どこかで“もらって”きちゃったのかもしれない」


「そんなことがあるのか?」



 聞いたことがないのだろう、エデュアルトは疑わし気な視線を寄越してきた。

 私も教科書でしか読んだことがなく、実際にこの目で見たのは初めてだ。けれど目の前で暴れる女性は間違いなく正気ではない。呪いに体を乗っ取られている。人を襲うのは、その呪いの源が人に対して強い憎しみを抱いていたからではないか――



「大修道院の教科書で読んだことがあるの。商人や旅人はいろんな土地を巡るから、少しずつ悪いものを体に溜め込んでしまうって」



 呪いや穢れは人に憑くこともあれば、土地に憑くこともある。人に憑く呪い――それこそエデュアルトにかけられた呪いは対象が決まっているから、無関係の他人が呪われることはない。けれど土地に憑いた呪いや穢れは、その地を通った人に無差別に憑くのだ。

 だから各地を巡る旅人や商人はあちこちで少しずつ悪いものをその身に溜めてしまい、最終的に呪いに意識を乗っ取られることがあると、教科書に過去の事例が記載されていた。



「がぁ――!」



 女性がこちらに向かって走り寄ってきた。エデュアルトは咄嗟に鞘ごと腰元から引き抜き、地面に押し付けるようにして女性の動きを抑え込む。そして私を振り返った。



「オリエッタ、君の力でどうにかできるのか!」



 呪い、穢れ。それらを払うのは聖女の仕事だ。

 悩んでいる暇はなかった。できないなんて言っていられない。やるしかない。

 エデュアルトが抑え込んでいる女性の傍らにしゃがみ込んだ。そして顔を覗き込む。彼女は喉元にあてられた鞘を押し返そうと、激しく抵抗していた。

 私の女神の力は、涙――体液を通して作用した。エデュアルトの呪いと比べればかなり弱い呪いだろうし、心を通わせられなくても、力押しでなんとかなるかもしれない。



(涙はすぐに出せない、それなら――)



 視界に入ったのは、女性が暴れるせいで鞘から若干抜けている刀身。一瞬躊躇ったが、覚悟を決めて刀身に指先を伸ばした。



「何を――!?」



 エデュアルトが驚いたように剣を引こうとする。しかしそれより数瞬早く、指先にピリリと痛みが走った。剣で指先が切れたのだ。

 指先から滴る一筋の血。私はそれを女性の口元にあてて、強引に飲ませた。

 涙はすぐに流せない。だとするとすぐに用意できる体液は、血しか思い浮かばなかった。



「お願い――」



 自分の血が女性の口に落ちていくのをじっと見つめていた。

 ごくり、と白い喉が上下した刹那、ぴたりと激しかった抵抗が止む。そして、



「……おさま、った?」



 ふ、と女性は気を失ってしまった。

 エデュアルトが石畳の上に倒れ込んだ女性の上半身を抱き上げる。無事を確認するように頬に伸ばした私の手は、彼の手に振り払われた。きっと私を思ってのことだったのだろうが、驚き、見上げた私にエデュアルトは厳しい視線を寄越す。

 ――怒って、いる?



「聖女さま!」



 群衆の中から一人の男性が飛び出てくる。背負った荷物を見るに、彼も商人のようだった。

 きっと知り合いだろうと見当をつけて、彼に問いかけた。



「あなたはこの方のお連れ様ですか?」


「は、はい」


「でしたら休ませて差し上げてください。きっと、もう大丈夫」



 聖女らしく、穏やかに微笑む。そうすれば周りからわっと歓声が上がった。

 ――よかった。辛うじて聖女としての体裁は保つことができた。私一人の言動が聖女全体の評価に、ひいてはナディリナ教の信仰に影響を与えてしまうかもしれないのだ。

 それにしても街中でこんな不測の事態が起こるなんて、各地の呪いや穢れの浄化が間に合っていないことの証に他ならない。今回は大事にならずに済んだが、シスターにも報告しておいた方がいいだろう。

 私には女性を呪いから解放することが精一杯で、大元の原因――彼女を乗っ取った呪いの浄化はできない。素早い報告が、今の私に唯一“できること”だ。



「ありがとうございました!」



 四方八方から浴びせられる感謝と賞賛の言葉に、ぼろが出ないうちに、と急いで宿屋へ向かった。そしてあらかじめ取っていた部屋に逃げ込むようにして入室する。

 観衆の目から解放されたことにほっと息をつき――背後から聞こえてきた扉の閉まる音に、体を固くした。

 振り返る。そこには俯くエデュアルトが立っていた。

 専属騎士と言えど、さすがに宿屋は別室を取っている。わざわざ私の部屋までついてきたということは、何か言いたいことがあるのだろう。

 エデュアルトの方から切り出してくれるのを待っていたが、彼は一向に口を開かない。どう切り出すべきか考えあぐねているのだろうか。どうであれ、気まずさに耐え切れなくなった私は、とうとう自分から声をかけた。



「……あの、エデュアルト?」



 エデュアルトは、たぶん、怒っている。とても厳しい目で私を見ていたから。彼が怒っている理由も、おそらく、ではあるが、察している。

 私は一歩彼に近づいた。そして下から顔を覗き込む。

 一瞬銀の瞳と目が合ったが、ふい、と逸らされてしまう。それがとてもショックで、しかし責められるはずもなく、私も自然と目を逸らしてしまった。



「――……俺の剣は、君を守るための剣だ。君を傷つけるためのものじゃない」



 低く唸るような声で言われて、心臓が大きく跳ねる。

 想像していた通りの理由ではあった。エデュアルトが怒っているのは、私が彼の剣を使って、勝手に傷を負ったからだ。きっと心底驚かせてしまったことだろう。

 でも、あの場ではああするしかなかった。そう思っているから、咄嗟に言い訳が口を突いて出る。



「ご、ごめんなさい。私はまだ力が不安定で、シスターが言うには、体液が力が外に出るための道になるって……」



 エデュアルトは何も言わない。沈黙が怖くて、ついつい言い訳を言い連ねてしまう。



「すぐに涙を流せそうな状況じゃなかったから、血を、と、思って……」



 どんどん言葉尻が小さくなっていく。

 あの場では、ああするしかなかった。その考えは今でも変わらない。けれど愚かな自己犠牲を正解とするのではなく、自分を、そしてエデュアルトを傷つけない方法をとれるように、これから努力しなければならない。努力の方向を、間違えてはいけない。

 ――どうしよう。呆れられた?

 黙ったままのエデュアルトを恐る恐る見上げる。すると彼は真っすぐな瞳でこちらを見ていた。



「聖女として、きっと君の判断は正しい。専属騎士が口を出していいことではないと、分かっている。だからこれは俺の我儘だ」



 そう前置きを置いて、エデュアルトは言う。



「今回のようなことは、もうしないで欲しい。……心臓が止まるかと思った」



 苦し気に眉間に皺を寄せる彼に、己の無鉄砲さを恥じた。

 守るはずの聖女を、自分の剣で傷つけてしまった。それは決してエデュアルトのせいではないけれど、彼の心に大きなショックを与えてしまったようだ。そこまで心を傾け、心配してくれる人がいるのだということを、忘れてはいけない。

 私が傷つけば、エデュアルトも傷つく。それは自惚れでもなんでもなく、聖女と専属騎士の在るべき姿なのかもしれなかった。



「ごめんなさい、エデュアルト。気をつけます」



 俯き、謝罪する。そうすれば「こちらこそすまなかった」と謝られた。

 エデュアルトはただ心配してくれただけだ。謝る必要なんてない――そう思い、パッと顔を上げたときだった。彼の右頬に引っかき傷を見つけた。きっと女性の体を抑え込んでいるときに引っかかれたのだろう。



「怪我してるじゃない!」


「かすり傷だよ、痛くない。それに――」




 エデュアルトの言葉を遮るように、私は彼の頬に手を当てて、治癒の力を使おうと目を閉じた。

 彼の言葉は嘘ではないだろう。血も滲んでいないし、深くもなさそうだ。けれど、きちんと正規の方法で女神の力を使えるようになりたい。今回のような失敗は、もうしたくない。



「無理はするな。俺はもともと、治癒魔法が効きにくい体質なんだ」



 治癒魔法が効きにくい体質。それはきっと竜の呪いが関係しているのだろう。しかしならばこそ、普通の治癒魔法は効きにくかったとしても、女神の力なら問題なく傷を治せるかもしれない。



「うぐぐ……」



 思わず唸る。するとふ、とエデュアルトが纏っていた空気が柔らかなものになったような気がした。そのことに安心して、強張っていた肩から力が抜ける。

 瞬間、全身を何かあたたかなものが駆け巡った。初めて感じる、不思議な感覚だった。

 ――いいや、違う。この感覚には覚えがある。大聖女コレット様から女神の力を授かる継承の儀のときに、似たような感覚に襲われた。あたたかな何かが体の中に入ってきて、全身に巡っていく感覚――



『――て、――気づいて』



 それと同時に女性の声が聞こえた気がして、私は思わず目を開ける。



「へっ?」



 慌ててあたりを見渡したが、当然のことながら部屋には私とエデュアルトしかいなかった。

 空耳だろうか。しかしそれにしては、やけにはっきりと近くで聞こえて――まさか、エデュアルト?



「今、何か言った?」


「いいや、何も。――治った」


「えっ、ほんと!?」



 エデュアルトの頬に視線をやる。すると彼の言う通り、引っかき傷は綺麗さっぱりなくなっていた。

 ――初めて治癒の力が使えた! それも、自分の意思で!

 先ほど全身を巡ったあたたかなもの、は女神の力だったのだろうか。正直感覚はまだ掴めていないが、一度使えたという事実は、私に自信を与えてくれて。



(この調子で少しずつ、力を使えるようになれば……)



 そのときの私は嬉しくて嬉しくて、どこからか聞こえた女性の声のことなんて、すっかり忘れてしまった。



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