77:戻ってきた日常
花咲く丘に私は立っていた。
遠く、大きな木の下に立つ二人の男女が見える。彼らは寄り添ったままこちらに手を振った。
不意に強い風が吹く。その風にのって、声が聞こえた気がした。
――ありがとう、と。
***
ふ、と意識が浮上した。数度瞬いて、天井のシミに焦点が合う。
清潔感溢れる純白の天井は、おそらく。
「大修道院……?」
幾度となく見上げたコレット大修道院の寮の天井に間違いなかった。
随分と頭が重い。察するにかなりの時間寝ていたようで、陳腐な言い回しだが全身が石のように重かった。
寝返りすら打てず呻いた私の視界を覆うように、一人の男性が顔を覗き込んでくる。
「オリエッタ、目が覚めたか!」
絹のような美しい銀髪に、眠気も覚めてしまいそうなほど整った顔立ち。そしてこちらを見下ろす切れ長の瞳は、銀。
「……エデュアルト?」
そう、銀色だ。金でも、ましてや赤でもない。
――つまり今目の前にいるのは、私の専属騎士を務めてくれているエデュアルト・エッセリンクということになる!
これは夢? 死んでしまった哀れな聖女に女神様がかけてくださった最後の慈悲? 死ぬ前の走馬灯? それとも――現実?
信じられない気持ちでその名前を呼ぶと、目の前の青年は穏やかに頷いた。
「ジジはもういない。君のおかげで、彼はネローネ様の許へ帰った」
エデュアルトは私に言い聞かせるようにゆっくりと言う。私が気になっていたところを的確に拾い上げた彼の説明に、徐々にではあるが今自分が置かれている現状を理解し始めた。
ジジは、エデュアルトの中に眠っていた守護竜はもういない。それはつまり、成仏した――という認識でいいのだろうか。どうであれ、あの穏やかで優しい守護竜が呪いから解放されたのであれば喜ばしいことだ。
そこでふと思い至る。ジジはネローネ様の許へ帰った。そしてエデュアルトとこうして今、会話できている。ということは、彼らの意識を飲み込んでいた呪いは、もしかしたら――
期待に早まる鼓動を自覚しつつ問いかけた。
「の、呪いは……?」
エデュアルトは微笑んで、私の手を取った。
「彼が持っていってくれたよ。こんなに体が軽いのは、生まれて初めてだ」
私は反射的に「よかったぁ!」と叫んでいた。
一瞬夢ではないかと怖くなって、頬を抓ってみた。痛い。夢じゃない。エデュアルトを竜の呪いから解放することができたのだ!
エデュアルトは感極まった様子で私の右手を自分の頬にあてた。
「ありがとう、オリエッタ。俺は君になんてお礼を言えばいいのか……」
「お礼を言われるようなことは何もしていないわ。ただ私が勝手にしたことだもの」
実際呪いに関してエデュアルトから依頼された訳ではないから完全に私の自己満足なのだが、彼は納得いっていないようだった。しかしこれ以上のお礼を受け取る気はなかったので、話を逸らすように別の話題を提供する。
「ジジにお礼を言い損ねてしまったわね」
守護竜・ジジ。彼はエデュアルトに体を返そうとしてくれていたし、きっと呪いにも一緒に抗ってくれたはずだ。状況が状況なだけに仕方なかったかもしれないが、お礼はもちろんのこと、さよならすら言えずに二度と会えなくなってしまったことは素直に寂しい。
エデュアルトは頷いて提案してきた。
「今度、一緒に彼の洞窟まで行こう。俺もきちんと礼を言いたい」
「ローネの花を買っていきましょう」
女神ネローネ様が愛し、ジジも愛した小さく美しい花。
そこでふと、もう一人の女神の存在を思い出した。あたりをきょろきょろと見渡すが、その姿はどこにも見えない。
「そうだ、アラスティア様は?」
「ネローネ様の許に向かった。もうすぐ帰ってくる頃だと思うが……」
エデュアルトの答えにあれ、と思う。
ネローネ様の許とは、一度私も訪れた大修道院の南にあるベルルスコーニ国内の洞窟を指しているはずだ。てっきり私は今大修道院にいるのかと思っていたが、私に“閉じ込められて”いるアラスティア様がそんな遠くに一人で行けるはずがない。つまり私が今寝かされているベッドは、大修道院の聖女寮のものではないということになる。
「……それじゃあここは、ネローネ様の洞窟の近く?」
「いいや、大修道院だ」
エデュアルトの答えに、私はますます首を傾げた。
ここは大修道院で、アラスティア様はネローネ様の許にいる。どちらも間違いではないらしい。しかしそれでは些か、私とアラスティア様の間に距離がありすぎる。
「そんなに離れて大丈夫なの?」
エデュアルトは笑って、驚きの事実を告げた。
「アラスティアも、自由になったらしい」
「へ!?」
――自由になった? それって、まさか、つまり!?
「だってあんた、騎士に告白したでしょ」
ノックもなしに突然現れたアラスティア様に驚いて、私はベッドの上で飛び上がった。
見慣れた手乗りサイズの姿ではなく長身の女性姿をとっていた女神様は、私のことなんか気にせず乱暴な動きでベッドに腰かける。そして驚きの連続で固まる私に、「告白したんでしょ?」と再度問いかけてきた。
――全然状況が把握できないけれど、私が騎士に告白したことで前々世のお姫様の未練が昇華され、アラスティア様が自由になれたと、そういうことでいいのだろうか。
「そんな……そんなことでよかったんですか!?」
「さぁ? あんたの魂が解放してくれたから、そうなんじゃないの」
喜ぶべきことなのは間違いないのだが、あまりに呆気ない結末に私はどこか納得のいかないもやもやとした気持ちを持て余していた。
確かに死にかけた瞬間、自分はお姫様と同じ未練を抱えたまま逝くことになるのかと思った。だからこそ、エデュアルトに想いを告げたのだ。未練は未来に禍根を残す。その様を幾度となく見てきたから、せめて未練を抱えずに逝けるように、と。
結果としてはこうして生きている訳だが――と、そこで今更なことに思い至る。
(私、エデュアルトに告白したんだった! どうしよう!)
アラスティア様に指摘されるまですっかり忘れていた。
しかし私が告白したとき、エデュアルトは竜の呪いに意識を乗っ取られていたはずだ。だからもしかすると私の告白も聞こえていなかったのでは――だとしても、ついさっきアラスティア様が告白について言及してしまった! もしエデュアルトが大陸一の鈍感だったとしても、アラスティア様の言葉からさすがに察するものがあっただろう。
あぁ、どうしよう。別に答えてほしくて告白した訳じゃない。ただ、死んでしまうのなら最後に言ってしまおうと、半ば開き直るような形で言ったのであって――
ぐるぐる考えてはおそらく百面相していたであろう私に、エデュアルトが遠慮がちに教えてくれた。
「アラスティアの火事場の馬鹿力も関係していると、ナディリナ様が仰っていた」
「ちょっとエデュアルト! 言うんじゃないわよ!」
アラスティア様はエデュアルトに掴みかかろうとする。しかし流石は優秀な騎士、さらりと簡単に躱すと笑顔で続けた。
「オリエッタを助けようとしてアラスティアの火事場の馬鹿力が出たらしい。その結果、鎖を引きちぎったそうだ」
私は思わずアラスティア様を見た。彼女は顔を赤く染めて、そっぽを向いている。否定の言葉を挟んでこないあたり、事実なのだろう。
アラスティア様と出会ったばかりの頃の言葉を思い出す。ある程度力を取り戻すことができれば力づくで外に出てやる、と言っていた覚えがある。
今回、もしかすると私の意志や前々世の未練はあまり関係がなかったのかもしれない。既にある程度アラスティア様は力を取り戻していて、火事場の馬鹿力が良いように作用した結果、アラスティア様本人の力で外に出ることができた。ならばなぜそれを語らず、私の前々世の未練云々の話に繋げようとしたかは――今顔を赤く染めているアラスティア様を見れば、聞かずともその訳が分かる。
――火事場の馬鹿力が出るくらい必死に、助けようとしてくださったんだ。
じわり、と胸の内に広がったのは喜び。それをゆっくりと噛みしめているうち、寂しさが湧いて出てきた。
アラスティア様を繋いでいた鎖は断ち切られた。それはつまり、彼女との別れを意味する。
「何よ、その顔。やっとやさぐれ女神から解放されてうれしいんじゃないの?」
アラスティア様は再びベッドに腰かけたかと思うと、顔を覗き込んできた。そのときの表情がどこか寂しそうに見えて――私が寂しいと感じていたからそう見えただけかもしれないけれど――心の内を素直に吐露する。
「あんまりに突然で……今までずっと一緒でしたから、半身を失ってしまったような喪失感と申しますか……」
ちらり、とアラスティア様を上目遣いで見る。するとみるみる彼女の顔に笑みが広がっていって、先ほどとは明らかに違う意味で頬が紅潮していた。
「しょうがないわねぇ! どーせあたしは暇してるし、ついて行ってやらないこともないわよ」
大きく上がった口元に、弾むような声。どう見ても、どう聞いても“しょうがない”という態度ではないアラスティア様に思わず頬が緩む。
「アラスティアが寂しいんだろ」
「そんなんじゃないわよ!」
エデュアルトが突っ込み、アラスティア様が食って掛かる。
戻ってきた賑やかな日常に視界が滲んで、二人に気づかれないようにほんの少しだけ泣いた。




