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76:「愛してるわ」



 底知れぬ暗闇のような漆黒の鱗。生き血を啜ったような赤い瞳。

私の目の前に現れた竜は、まさに呪いの具現化と表現するに相応しい姿をしていた。

 エデュアルトとも、ジジとも違う第三の存在。長い年月の中で関係ない穢れや呪いまで己のものとして、肥大化した竜の呪い。

 足が震える。カチカチと奥歯が音を立てる。今このとき私を支配していたのは、本能的な恐怖だ。

 ――こんな恐ろしい呪いに敵うはずがない。早く逃げなくては。

 脳裏に警鐘が鳴り響く。ずり、とどうにか後退りをした瞬間、黒竜がけたたましく咆哮を上げた。

 それだけなのに、私は衝撃でその場に尻もちをついてしまう。慌てて起き上がろうと地面に手をつき、前を見据えたそのときだった。

視界の隅で薄紫の花びらが舞った。



(ローネの花……)



 女神ネローネが愛し、守護竜ジジが愛し、少女ミーナが愛した花。

 ――逃げてはいけない。ここで私が逃げればエデュアルトもジジも、竜の呪いに飲み込まれたままになってしまう。

 幸い、私は呪いに有効とされる女神の力を持っている。こうして呪いが表に出てきてくれたことはかえって好都合かもしれない。直接女神の力で干渉すれば、あるいは。

 私は立ち上がり、一歩前へ踏み出した。もう足は震えていなかった。



「駄目よ、オリエッタ! 今のこいつは、エデュアルトでもジジでもない、肥大化した呪いよ!」



 背後でアラスティア様が叫ぶ。

 私は竜を見つめたまま叫び返した。



「でも呪いだったら、女神の力で浄化できるかもしれません!」


「無茶よ! 何百年という間膨らみ続けた呪いは、女神あたしたちにだって――!」



 再び竜が咆える。アラスティア様の声がかき消される。

 それきり女神様の声は聞こえなくなってしまったけれど、何があったのかと背後を振り返る余裕はなかった。一瞬であったとしても、目の前の黒竜に隙を見せてはいけない。目を離すなんてもってのほかだ。

 アラスティア様を心配しつつも、私は大きく息を吸って、呪いに飲み込まれてしまっているであろう二人に呼びかけた。



「エデュアルト! ジジ!」



 ぎょろり、と赤の瞳が私を睨む。その瞳にはエデュアルトの優しい面影も、ジジの穏やかな面影も一切感じられない。

 再び足が竦んだ綿に向かって、黒竜の大きな前足が伸ばされた。



「私を、殺しに来たのか――!」



 竜の前足に呆気なく捕まった私はそのまま地面に叩きつけられる。激しい衝撃と痛みに咳込めば、喉を潰すように指先で上から圧迫された。



「ぐ、ぁ――」



 どれだけもがいてもびくともしない。どんどん呼吸は苦しくなり、浮かんだ涙で視界が滲む。

 喉元を圧迫する竜の前足を必死にひっかくあまり、鱗に引っかかって爪がはがれた。しかし意識が遠くなっているせいかろくに痛みは感じない。そのことが余計に私に“死”を直感させた。



(このまま死ぬの? このまま……)



 脳裏に浮かんだ光景は燃える街並み。そして見知らぬ騎士の泣きそうな顔。その顔がぐにゃりと歪んだかと思うと、やがてエデュアルトの顔に変化した。

 ――あぁ、私は今このとき、夢で見たお姫様と同じ未練を胸に抱いたのだと理解する。

 このまま死んでしまうのか。何もできず、救いたい人を救えず、――想いを告げることすらできずに。



(エデュアルト……)



 歪む景色の中、こちらを見つめる赤の瞳が揺らいだように見えた。かと思うと私を抑えつける足に込められていた力が僅かに緩まり、苦しむように黒竜は咆哮を上げる。

 ――そのとき、ほんの一瞬、赤かった瞳が銀色に戻ったように見えて。

 黒竜は天井に頭を打ち付けながらもがき苦しんでいる。その瞳の色は銀色になり、金色になり、赤色になり、とうとう涙が零れ落ちる。その光景に、エデュアルトとジジが必死に呪いに抵抗しているのだと分かった。

 私は自分を拘束する巨大な腕にぎゅっとしがみつく。そして、そっと呼びかけた。



(あぁ、どうか泣かないで。あなたのせいじゃない。私はあなたを恨みはしない。私は――)



 大きく息を吸う。そして、



「愛してるわ」



 自分が死んでも構わないという思いで、女神の力を使った。大切な人を救えるのなら、私の中の力が空っぽになって、この体が干からびてしまってもいいとすら思った。

 黒竜にしがみついていた己の腕が視界の隅で淡く光り始める。女神の力が体中を駆け巡っているのか、全身がぽかぽかと温かくて、心地よさすら覚えた。

 ぴしり、と黒竜の前足に亀裂が走る。その亀裂はどんどん広がっていき、隙間から光が漏れ出た。

 黒竜の叫びは私の耳にはもう届かない。目を開けていられないほどの眩しさに包まれて、私はそのまま意識を失う――

 そのとき、誰かの手が私の肩を抱き上げるように支えてくれた。意識が落ちる寸前だったため目を開けてその人物を確かめることはできなかったが、強く抱きしめてくれたことは分かった。



「――ありがとう」



 夢見心地の中、右耳のすぐ横で落とされたその声は男性のものか女性のものか判断できなくて。

 ただ私は与えられたぬくもりに安心して、そのまま意識を手放したのだった。



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