73:赤く光った瞳
目の前のジジに頭から突進して地面に伏せた瞬間、頭上を何かが走り抜けた。
不可抗力ながら私の下敷きにしてしまったジジがすごい力で体を起こす。そうすれば彼の上で伸びていた私も自然と上半身を起こすことになり、先ほど頭上を走り抜けた“何か”の正体を掴もうとあたりを見渡した。
――それは、走り抜けた先でアロイスさんと交戦していた。
巨大な馬のような体から禍々しいオーラが立ち込めている。鼻が曲がりそうなほどの焦げ臭さに顔をしかめ、魔物の様子をじっと観察した。
魔物が動く度に纏っている禍々しいオーラがあたりにまき散らされていく。草木は枯れ、アロイスさんの剣も黒く変色し始めていた。
「かなり強い穢れに侵されてる……。あの魔物が穢れをその体に溜め込んで、森中にばらまいているんだわ!」
魔物が森の穢れの原因だと考えていいだろう。一刻も早く浄化してやらなければ、魔物自身の命に係わる。
幸いアロイスさんと交戦中の魔物は私たちに背を向けていた。アロイスさんを囮にするようで心苦しいが、彼が注意を引き付けてくれている間に、私は背後からじわじわと距離を詰める。
そのとき、す、と隣に並んだ一つの気配。“彼”にも協力してもらおうと隣を見上げた、その刹那。“彼”――ジジは剣を抜いて魔物に突進していった。
「うぉおおお――!」
「ジジ!?」
突然の行動に驚きを隠せない。彼は作戦も立てず、真正面から突っ込んでいくようなタイプだっただろうか。
私の戸惑いをよそに、背後から魔物に切りかかったジジは立て続けに二撃目をお見舞いする。不意を突かれての攻撃に驚いた魔物は後ろ脚でジジを蹴り上げようとしたようだったが、蹴りを難なく躱したジジはそのまま己に向けられた後ろ脚に切りかかった。
後ろ脚にかなり深い傷を負ったらしい魔物はその場に倒れる。アロイスさんは素早く魔法を使い魔物を拘束して、ガブリエルの傍に駆け寄った。
アロイスさんは聖女に浄化を頼むつもりなのだろう。戦闘で荒れてしまった足場を避けながら、ガブリエルの手を引いて――
その間、ジジは剣を握りしめたままじっと魔物を見下ろしていた。
私も魔物の許に合流しようと近づいていく。ジジの背中にお疲れ様と声をかけようとして、魔物を見下ろす虚ろな金の瞳に嫌な予感がした。
ゆっくり、ジジは持っていた剣を振りかぶる。金だったはずの瞳が赤く光ったのを見て、私は咄嗟に叫んだ。
「だめ!」
ぴくり、と剣を振りかぶっていたジジの手が震えた。そして緩慢な動きでジジの顔がこちらに向けられる。――瞳の色は、金だ。
「……オリエッタ?」
唖然とジジは私の名を呼んだ。
見開かれた目。震える唇。不安そうな、迷子になった子どものような表情を浮かべたジジに、私は駆け寄った。
「剣を降ろして」
そっとジジの肩に触れる。するとようやく振り上げられた剣が降ろされた。
からん、と音を立てて地面に落ちたのは剣だ。魔物の血で剣先が赤く染まっていて、先ほど赤く光ったジジの瞳と重なった。
「どうして、私はこんなことを……」
後ろに下がろうとしたのか、足元がふらついたのか、揺らめくジジの体を支える。
おそらくジジに魔物を殺す気はなかった。だとしたら、先ほどの赤い目をした“彼”は一体――
ぼんやりと、浮かび上がってくる仮説があった。しかしそれはあまり信じたくない仮説であり、どうか間違っていて欲しいと願わずにはいられない。
穢れに侵された魔物の前で二度、“彼”は姿を現した。ジジでも、もちろんエデュアルトでもない人物。それでいて、エデュアルトの体の中に潜んでいる人物。それは――竜の呪い。
穢れや呪いは互いに刺激し合うようだった。そのせいでエデュアルトが苦しんでいたのを何度も見た。
今回、魔物の穢れに強く反応した竜の呪いが、ジジ本人の意識すら乗っ取ろうとしているのだとしたら――
(もしかしたら、ジジは自分が生み出してしまった呪いに飲み込まれそうになっているのかもしれない。呪いとしてエッセリンク家当主の体の中で生き続けるうちに、関係ない穢れや呪いを集めてしまっているんだわ。この魔物のように)
地面に伏す巨大な魔物を見下ろす。魔物の体からはどす黒い靄が立ち込め、その靄は魔物の体すらも飲み込もうとしているように見えた。
長い年月をかけて肥大化した呪いが全てを飲み込んでしまう日はそう遠くないのかもしれない。ジジも、エデュアルトも――
ぞっとして身を震わせた。ジジの未練から生まれてしまった呪いは、産みの親も体の持ち主も支配してしまおうとしているのだろうか。
立ち尽くすジジと、それを支える真っ青な顔をした私。見るからに異常な私たちを心配するようにガブリエルが視線を寄こしてきたが、へたくそな笑顔で応えるので精一杯だった。
ガブリエルが魔物の治療と浄化を始める。優秀な彼女はそう時間をかけずに作業を終え、魔物は元気な足取りで森の奥へと消えていった。
「……浄化したのか」
魔物が駆けていった方角をじっと見つめながらジジは呟く。「えぇ」と頷けば、支えていた彼の体にぐっと力がはいったのが分かった。
「あの魔物は穢れから解放されたのか」
「えぇ」
「……それなら、よかった」
その声は、表情は、まるで穢れから解放された魔物を慈しむようでいて――羨むようにも聞こえて。
気が付けば私は、エデュアルトだけでなく、ジジのことも呪いから解放してあげたいと思うようになっていた。




