70:聞きたい声
その日の夜、ジジが護っていた第一の街・フルメヴェーラの宿屋に泊まった。
当然のことながらジジとは別々に部屋を取って、振り分けられた部屋に入るなり私はベッドに腰かける。そして先ほどジジからもらったばかりのローネの花のブローチを取り出し、じっと眺めた。
ジジからブローチをもらった瞬間、エデュアルトのことを思いだした。彼は最初の任務を終えた後、そのお祝いにと髪留めを贈ってくれたのだ。
先ほどのジジの行動は彼自身の心から生まれたものなのか、それとも体の持ち主・エデュアルトに何らかの影響を受けたものなのか――
ふわり、と頭の上に重みが現れる。どうやら手のひらサイズのアラスティア様が私の頭に肘をついて、ブローチを眺めているようだった。
「ジジ、やっぱり人を呪うような竜には思えないんです。一人の少女のこともずっと覚えていて……」
思わず口からこぼれたのは心からの言葉だ。
ジジと過ごしたのはまだほんの数日の出来事だが、とても呪いの竜とは思えないほど穏やかな性格をしている。小さき者――人間を慮る心も持ち合わせているようだし、何より生前、ローネの花を贈ってくれた少女のことも覚えていた。
そんな彼が、例え討伐された恨みを抱いたとしても、エッセリンク家の血を末代まで呪い続けるとは考えにくい。
しかしアラスティア様は私の言葉を鼻で笑う。
「慈しんでいた相手に裏切られたからこそ、激しい恨みを抱いて呪ったのかもしれないわよ」
それも一理あるかもしれなかった。
けれど、と思う。少女を思い返していたときのジジの表情が脳裏に焼き付いて離れない。もし彼が人間の裏切りを憎んでいるとするならば、あんな穏やかな表情を浮かべるだろうか。
「だとしたら、今のジジがあんなに穏やかな表情をするのはおかしいです。人を憎んでいるんだったら、私のことだってもっと邪険に扱うはず……」
アラスティア様の眼前に突き付けるようにジジからもらったブローチを掲げる。
私がジジにとって、道案内人になっているのは確かだ。しかし仮に人間を憎んでいるとしたら、礼だと言ってアクセサリーを贈るだろうか。――例え、他人のお金を使ったとしても。
アラスティア様は黙り込んで私の右肩に座った。そして右耳に寄りかかってくる。
「……今のジジは、呪いと切り離された存在なのかも」
「どういう意味ですか?」
問いかければアラスティア様は私の右肩から離れて宙で足を組む。そして小さな指先でローネの花のブローチをつついた。
「穢れを生み出すのは人間をはじめとした生きとし生けるものが持つ醜い感情よ。けれど一度生まれた穢れは生みの親である生き物の許を離れて、その土地を穢す。それはいわば、穢れが生みの親とは別の意識を獲得したようなもの」
確かに穢れは生き物の感情から生まれるが、穢れを生み出した存在に憑くのではなくその土地に憑く。
以前、後継者問題で穢れが発生した森の浄化を命じられたときのことを思い出した。森を穢した原因は人間の醜い感情にある。しかし穢れによる被害を受けたのは人間ではなく、森だった。
そう考えるとなるほど確かに、アラスティア様の言葉通り穢れは生みの親である生き物から離れている。――それを別の意識を獲得した、とまで表現していいのかは若干首を傾げるところだが。
「ジジの呪いなんて何百年と続いてるんだから、呪い自体がジジとは別の意識を持ってエッセリンク家を呪い続けているのかもしれない」
人間が生み出したにも拘わらず、人間ではなく土地に憑く穢れと同じようなことが、ジジの呪いにおいても起こっているのではないか、とアラスティア様は考えているらしい。
「ジジ本人とは別に、呪いという別人格が生まれた……みたいなものですか?」
ジジの意識と、呪いの意識。
元は一つであったはずのものが、長い月日を経て完全に分かれてしまった――?
アラスティア様はしばらくの間考えて、小さく首を振った。
「別人格というより、親と子みたいな関係の方が近いかもしれないわね。竜の呪いの親はジジの強い感情だったかもしれないけれど、呪いはもう彼の制御下にはない」
徐々にアラスティア様の仮説を飲み込めてきた。
エッセリンク家にかけられた呪いは確かにジジから生まれた。しかし強い呪いはジジ本人の意識から独立して、呪い自身の意志でエッセリンク家を、エデュアルトを呪い続けている。それは呪いと表現するより、前世で言う怨霊や地縛霊といった表現の方が適しているように思えた。
今エデュアルトの体を乗っ取っているのは、呪いから切り離されたジジ。そう考えると納得がいくのだか、一つ、気の重い仮定が浮かび上がってくる。
「だとしたら仮に、ジジ本人がエッセリンク家を許したとしても……呪いは続くかもしれないってことですか」
ジジの制御下に竜の呪いはない。つまりジジがエデュアルトを呪わないと決断しても、その決断は呪いに反映されないのでは――?
顔を青くした私に、アラスティア様はため息をつく。
「だからこそ、エデュアルト自身が打ち勝つ必要があるんでしょ。ジジが許して呪いが解けるなら、ネローネが許すように呼び掛けてそれで終わりよ」
あぁなるほどと頷きかけて、動きを止める。
「でもエデュアルトが打ち負かすべき相手はジジなのではなく、呪いの方ですよね? ううん、この方法で本当に呪いが解けるのかしら……」
今エデュアルトの体を動かしているのはジジだ。呪いではない。だとしたらジジに打ち勝ったところで、呪いだけがエデュアルトの許に残ってしまうのでは、と思うのだが――
不意に、アラスティア様の瞳が見開かれた。どうやら彼女は“何か”に気づいたようで、見開いた目の焦点を徐々にブローチに定めると、小さく頷く。そして、
「……なるほどね」
そっと呟いた。
「アラスティア様?」
「なんでもないわ。でも、あんたが選んだ行動は間違ってないと思うわよ」
一体何に気が付いたのだろうと疑問に思い促すように名前を呼ぶが、アラスティア様は答えを教えてくれるつもりはないようではぐらかされてしまった。
アラスティア様の性格上、しつこく聞いては余計に教えてくれなくなるだろう。だから大人しく諦めて、彼女が振ってきた新しい話題に乗る。
「私が選んだ行動、ですか?」
「ジジがかつて護っていた土地を巡るって行動。あいつも喜んでるみたいだし、このまま付き合ってやりましょうよ」
ジジと一緒に彼の護っていた地を巡ると私が言いだしたときはあまり乗り気ではなさそうだったのに、急にどうしたのだろう。
アラスティア様が私に何かを隠しているのは間違いない。短期間で百八十度変わった女神様の意見に余計に不安が掻き立てられる。
もやもやとした気持ちを抱えたまま、しかし私は確かに頷いた。
「もちろん、そのつもりです」
ジジのために、そしてなにより、エデュアルトのために、今できることをするしかない。そして私に今できることと言えば、ただジジの願望を叶えてあげることぐらいだ。
正直言ってもどかしい。けれどここで焦って、何か取り返しのつかないミスでもすれば一生エデュアルトを失うことになる。それだけは絶対に避けなければならない。
大きく息をついてベッドに横になった。そうすれば疲労が溜まっていたのか、あっという間に睡魔が襲い掛かってくる。
私は抗うことなく瞼を閉じた。
『オリエッタ』
鼓膜に蘇ってきたのは柔らかな声。エデュアルトの、声。
――あぁ、彼の声が聴きたい。




