66:呪いの竜・ジジ
「ねぇ、あんたの家って竜の呪いのおかげで手柄を上げてたんでしょ? 勝手に呪い解いちゃってもいいワケ?」
ネローネ様の許へ向かう馬車の中で、アラスティア様が突然そんなことを言い出した。
何を今更――と考えて、今回の件についてエデュアルト本人の意志を聞いていなかったことを思い出す。彼の呪いを解けるかもしれないと聞いて、私が一人で先走ってしまっていた。
問いかけにエデュアルトは俯く。悩んでいるのだろうか。
アラスティア様の指摘通り、エッセリンク家は竜の呪いの力を逆に利用して、様々な功績を上げてきたお家だ。最近の任務でのエデュアルトの活躍を見ても、竜の呪いは使いこなせれば大きな力となる。
エデュアルトは自身の呪いについて良い感情は持ち合わせていないようだが、なくなったらなくなったで、エッセリンク家としては困ることもあるだろう。
「確かに、エッセリンク家としては呪いから解放されることを手放しで喜ぶことはできないだろう。今のエッセリンク家があるのは、全て竜の呪いのおかげだ」
エデュアルトはゆっくり、まるで自分に言い聞かせるような口調で語る。
「しかしこのまま竜の呪いを利用し続ければ、やがていつかはエッセリンク家の血も呪いに飲み込まれてしまう」
視線を自分の手元に落とし、拳を開いたり閉じたりを繰り返すエデュアルト。自分の中に眠っている呪いの感覚を確かめるような、そんな動きだった。
前髪で隠れた横顔を見つめていたら、不意にエデュアルトの顔がこちらに向けられた。長い前髪の隙間から見え隠れする銀の瞳と視線が絡む。
「俺はオリエッタのおかげで人間に戻ることができた。しかしもし子孫が完全に呪いに飲まれて、呪いの竜になってしまったら。その竜が騎士の手によって討伐されたら。竜が己を討伐した騎士を呪ったら。呪いは巡ってしまう」
呪われる側だったエッセリンク家が、いつしか呪う側になるかもしれない。エデュアルトはその未来を恐れているようだった。
だから、と彼は顔を上げる。
「呪いは断ち切らなければならない」
エデュアルトは既に覚悟を決めていた。
彼が決めたのなら、私ももう迷わない。ただエデュアルトの身を蝕む呪いを解くために、できる限りのことをするだけだ。
***
ネローネ様が今腰を落ち着けている場所と聞いて訪れたのは、街はずれの洞窟。恐る恐る足を踏み入れると、洞窟の中には人の手が加わったとしか思えない美しい泉が広がっていた。
泉の近くで足踏みする私とエデュアルトを後目に、手乗りサイズのアラスティア様は泉の中心まで飛んでいく。――と、そのとき。
「あら、本当にかわいらしい姿になっているのですね、アラスティア」
どこからともなく美しい女性の声が聞こえてきたと思うと、泉の中心が勢いよく噴きあがって――水の中から、一人の女性が現れた。
薄水色の髪に、垂れた金の瞳。ゆったりとした布を体に纏い、まるで御伽噺に出てくる人魚のような出で立ちで水の上に“浮いて”いる女性の正体は、おそらく。
「ネローネ!」
アラスティア様が声を上げて女性――女神・ネローネ様に飛びつく。ナディリナ様に対する喧嘩腰の態度とは打って変わって、再会を喜んでいるように見えた。
「ナディリナから話を聞いたときはまさかと思いましたが……ふふ」
「何ニヤついてんのよ」
「いいえ、別に。あなたたちもよく来てくれました。話は聞いています」
不意に金の瞳がこちらに向けられて自然と背筋が伸びる。
「聖女オリエッタと……エッセリンク家の末裔」
隣に立つエデュアルトがうやうやしく頭を下げたのを見て、私も慌ててお辞儀した。そうすればネローネ様の穏やかな笑い声が鼓膜を揺らす。
てっきりアラスティア様やナディリナ様のようにはっちゃけた性格をしているのかと思っていたのだが、ネローネ様は何も知らなかった頃に思い描いていた“女神様”のイメージに一番近い、清楚で穏やかな方のようだ。
「んで? こいつの中にいるペットに会いたいって聞いたから、わざわざ来てやったんだけど?」
「感謝しています、ありがとう」
朗らかに笑うネローネ様に緊張がほどけて、挨拶もそこそこに本題に入るべく声をかけた。
「ネローネ様。ネローネ様でしたら彼の呪いを解けるかもしれないと、ナディリナ様からお聞きして……」
早口で急かすように捲し立てた私を無礼だと咎めることなく、ネローネ様は口元に緩く笑みを敷いたまま頷く。そしてエデュアルトを真正面から見つめた。
「エッセリンク家は竜の呪いを利用して成り上がった家。呪いを失えば、今まで通りではいられないでしょう。それでもあなたは、その呪いから逃れたいのですか?」
「はい。エッセリンク家はそう遠くない未来、呪いに飲み込まれてしまうはず。それだけは避けたいのです」
エデュアルトは迷うことなく頷いた。
彼の決意を聞き届けたネローネ様は水の上を歩いてこちらに近づいてくる。そしてエデュアルトの真正面に立つと、美しい指で彼の眉間にそっと触れた。
「あなたの中で眠る竜――ジジを起こします。そうすれば、あなたの意識はジジに飲み込まれるでしょう」
ネローネ様は表情から笑みを消してエデュアルトに説明する。
「あなたがジジの意識に打ち勝つことができれば、あなたが目を覚ますことができれば、そのときには呪いが解けているはずです。しかし目を覚ますことができなければ、あなたという存在はジジに取り込まれるでしょう」
私は思わずエデュアルトの服の裾を引いた。
簡単に呪いが解けるとは思っていなかった。けれどこんなの、まさしく命がけだ。呪いの竜であるジジとやらに意識を取り込まれる可能性があるだなんて!
エデュアルトの視線がネローネ様から外れて私に向けられる。銀の瞳は揺らいでいなかった。それどころか彼は、私を安心させるように優しく微笑んでいた。
――今苦しい決断を迫られているのは誰もない、エデュアルト本人だ。本来であれば私が彼を支えなければいけないだろうに、情けなくも動揺してしまった。
私はエデュアルトの決断を尊重し、その力になるためにできる限りのことをする。それだけだ。私が揺らいではいけない。
大きく一つ深呼吸。そしてエデュアルトを見つめ返し、頷いた。
大丈夫。何があろうと、私が彼を守る。そしてエッセリンク家の呪いをここで断ち切るのだ。
エデュアルトはネローネ様に向き直り「お願いします」と瞼を伏せた。
「起きなさい、ジジ。憎しみに飲まれてはなりません」
ネローネ様の声が洞窟内に響き、エデュアルトの体が淡い光に包まれた。その光の正体は、彼の中で眠っていた竜・ジジのものなのだろうか。
私はじっとエデュアルトの横顔を見上げていた。想い人が手の届かないどこかに行ってしまうような感覚に背筋を恐怖が駆け抜けて、負けてたまるものかと足に力をいれて地面を踏みしめる。
大丈夫、大丈夫。エデュアルトを信じている。彼は呪いの竜なんかには負けない。すぐに呪いに打ち勝って、優しく微笑んでくれる。私も精一杯力になろう。それが私の、彼に対する精一杯のお礼なのだから――
不意にぐらり、とエデュアルトの体が揺らめく。そしてそのまま後ろに尻もちをつくような形で倒れた。
「エデュアルト!」
慌ててエデュアルトの体を支える。その瞬間、ぐ、と彼の体に力が入ったのを感じた。
気を失った訳ではないことを悟りほっと胸を撫で下す。そして顔を覗き込み――こちらを見つめる金の瞳に、息を飲んだ。
――エデュアルトじゃ、ない。
唖然とする私を一瞥して、エデュアルト“だった者”はゆっくりと立ち上がった。
「彼はエデュアルトではありません。ジジです」
ネローネ様の声が、どこか遠くで木霊する。
――ジジ。
遠い昔、エッセリンク家を呪った竜に、エデュアルトの意識は飲み込まれたようだった。




